鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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友等の名士の詩文集には趙珣の活動をしばしば確認することができる。曹学佺(1575~1646、字を能始、号は石倉居士。南京戸部郎中、四川按察史を歴任)の詩文集である『浮山堂集』『夜光堂近稿』『石倉三稿詩集』などからは、万暦41年(1613)から崇禎2年(1629)にかけて趙珣との交遊が確認される(注3)。趙珣は曹学佺及び他の詩社仲間の集まりに出入りしたことが窺える。徐(1570~1645、字を惟起、号は興公。詩人、蔵書家)は曹学佺とともに閩中文壇を主導し、自ら興公詩派をも形成した。彼の詩集『鼇峰集』(天啓5、1625年)には趙珣の活動が窺える(注4)。また、徐興公『紅雨楼集』には、黄啓文や李公起らの名士を祝寿するために、趙珣に「松石図」や「濃墨一幅」を描かせた記述がある(注5)。趙珣が徐氏の詩会に出入りしながら徐氏に代わって絵を描いたことは興味深い。現存する趙珣の作品のうち、濃墨で描かれた松石図のように祝寿的性格を持つ作品が数多く存在するのは、おそらくこのような制作事情を物語っているのだろう。京都宇治の黄檗山萬福寺に所蔵される趙珣「老松図」には、第六代住持となる千呆性侒(1636~1703)による賛文がある。「敬題梥石不老圖、恭祝松隠堂上師翁老龢尚捌秩大誕。呈上俯垂慈鑒(後略)」とあり、隠元隆琦(1592~1673)の八十歳のお祝いとして趙珣の本図に賀詩を加えて献呈したという〔図1〕。実際に、千呆がこの跋文を記した1673年より前の1646年に趙珣はすでに歿しているので、本作品は千呆からの依頼制作ではなく、それより前に千呆が入手したものか、あるいは福建から渡来したものかと想像される。さらに興味深いのは、千呆の賀詩において趙珣の名前を「趙公」としてわざわざ登場させているのである。趙珣と隠元との直接的な交流を示す資料は見つかっていないが、彼らが知人であった可能性も考えられる。また、趙珣筆「双松図」(崇禎14、1641年作)は、瞿翁なる人物の丈母の誕生日を祝して描かれたものである〔図2〕。本図は萬福寺蔵「老松図」と同様、大画面で傾斜した土坡から雄健蒼勁たる老松がななめ上に屈曲して伸び、とりわけ松葉の濃密な描き込みが印象的である。松が生える土坡に岩石、芝草、竹などのめでたいモチーフを小ぶりに添え、祝寿のために描かれたものであるが、濃墨による力強い画面からは、趙珣の真剣な作画態度が感じられる。また、陳鴻(?~1647、字を叔度)は、曹学佺の幕人として活躍した布衣の詩人である。今回の研究で幸いにも、孤本とおぼしき陳鴻の詩集『秋室篇』を、国立公文書館の蔵書(豊後国佐伯藩主毛利高標の旧蔵本)に確認でき、その巻八には趙珣への弔詩が収められている(注6)。詩文に「狐兎何期守故園、離亂応有幾人存。知君泉路終遺恨、早不携家向鹿門」とあり、家国の不幸を悲しみつつ、趙珣との親交を「兎死― 434 ―― 434 ―

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