すれば狐これを悲しむ」ようなものとたとえている。明末乱離の中で大きな打撃を蒙った趙珣の境遇が想像される。枚挙に暇がないが、明末の閩中文壇に関わる商梅、林異卿、曽異撰などの名士たちの文集にも趙珣の活動がしばしば確認される。ほかにも、粤西の画家張穆之(1607~1688)の文集『鉄橋集』には趙珣、陳鴻らとの交遊が確認される(注7)。また、区亦軫、呉士登らの閩粤画家が合作した「瀟湘八景金箋扇面」には、趙珣はそのうち「煙寺晩鐘」の図を描いている。本扇面は現在行方不明だが、『紫川舘蔵書画落款譜』(安政5、1858年刊)にその款印を翻刻しており、日本に伝わってきたことがわかる(注8)。趙珣は若い頃から福州を中心に据えた閩中文壇で活躍し、その足跡を粤西にまで広げていたかもしれない。彼の作品の渡来については、黄檗関係のほかに、広東からの輸入ルートも考えられる。二 黄檗僧との交流及び作品の日本渡来許友(生年不詳~1663)『米友堂詩集』に収められる「趙枝斯遺稿序」は、趙珣に関する最も詳細な記述がある。趙珣が生涯にわたり詩に専念するほか、仏教を志して帰依し、常に僧寮を借りてアトリエとして画を作り、売画の収入で捨子を養い、鵝鴨と交換し動物たちを野に放すといったような善行を行い続けたことが記されている(注9)。また、明代浄土宗の高僧・益智旭(1599~1655)の書いた「趙十五像贊」がある(注10)。 視物之生、猶己之生。視人之厄、猶己之厄。只此民胞物與心腸、便是大慈大悲血脈。欲知不二法門、更受山僧一摑。豈不見、博施済衆、堯舜猶病。菩提初發、生界斯盡。會得個點玄關、便是維摩話柄。咄、覺路本來常坦坦、莫認偏鋒作正令。益智旭は、儒教経典である『論語・雍也』等を引用し、生きものの命を自分の命に等しく、萬民萬物の苦しみを自分のことのように共感するような趙珣の善行を、儒教の「仁」を基にして語っている。ただ、萬民に恩恵を与え、彼らを苦しみから救うことは聖帝の尭舜でさえ苦労したので、まさに世間に苦しむ一切衆生を救済し、済度しようとする菩提心が発起することこそ、修行の根本にあるとも智旭は教えている。趙珣は仏教に帰依していたが、深い教義を追究するというよりは、むしろ日々の生活の中で少しずつ実践することに努めたのであろう。彼の作品の根底にある、人間も動物も生きものすべての生命への共感や、日常生活の小さなものに対する深い愛惜を感じさせるまなざしは、まさにその実践に由来するものである。― 435 ―― 435 ―
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