趙珣「墨画芭蕉図」は、崇禎16年(1643)に福州の閩山で百拙禅師のために描き贈ったものである〔図3〕。百拙禅師は、福州出身の禅僧・百拙如理(1579~1649、1646年来日、長崎崇福寺二代目住持)だと考えられる。ほかに百拙が収集し、日本にもたらしたとみなしうる「明人諸先生贈百拙禅師書画十二軸」(盛田久左衛門旧蔵)には、趙珣や曹学佺、許友などの福建文人たちの作品も含まれている。また、趙珣「花果図」(1641年作)には「黄檗四代」の蔵印が押されており、隠元に随従して渡日した趙珣同郷の独湛性瑩(1628~1706)の旧蔵品とわかる〔図4〕。同じく隠元を追って来日した即非如一(1616~1671)の帯来と伝える『金箋書画扇面冊』の中に、趙珣の作品も確認される(注11)。実は、彼らの黄檗僧は趙珣の作品を学んでいる。独湛性瑩が木庵性瑫の60歳を祝って描いた「老松寿石図」〔図5〕や即非が描いた「松竹霊石図」には、画面の手前で右上から左下へ傾いている土坡や、うねうねと延びている老松、さらに老松の根元に霊芝と蘭草をちらりと配す、といった構図は、趙珣「老松図」や「双松図」に近い構図と表現が認められる。また趙珣には「雲裡鯨聲」と自題した松石図がある〔図6〕。本図は現在所在が不明だが、寛文元年(1661)に隠元七十歳の誕生を祝うために、隠元の周辺で活動した居士陳浩が本図を忠実に模写して献上したものが、現在萬福寺に所蔵されている〔図7〕。即非「老松芝蘭図」〔図8〕もやはり趙珣「雲裡鯨聲図」のような作品を意識して描いたと思われる。即非は福州府福清の出身であり、中国にいた時期は趙珣との交遊が未だ確認されていないが、篤信者として名の知られる地元の画家趙珣の作品を収集したのであろう。いずれにせよ、渡日黄檗僧侶らと深く関わった趙珣の作品は早い段階で日本にもたらされ、さらに長崎唐寺や黄檗寺院の間に広がり、黄檗僧侶や教団に関係する居士たちの間で贈り物や絵画制作の手本となったことは間違いない。仏教に深く関わっていた趙珣の作品のうち、豊後国の帆足本家富春館伝来の「苦行釈迦図」は、現在確認できる唯一の仏画である〔図9〕。本作品には木庵性瑫が着賛しており、また江戸後期の文人画家田能村竹田の弟子帆足杏雨(1810~1884)による箱書がされていることから、おそらく京都の黄檗周辺や竹田のような文人画家を経由して豊後まで伝わってきたかと推測される。その衣紋線を見てみると、淡墨線の上にさらに濃い墨線を重ねて入れ、線描は柔らかく、曲がりくねっている特徴が、田能村竹田の一連の白衣観音像にも継承されている(注12)。また、同様な線の処理は、中国側にその源流を求めれば、当時仏画の名手であった趙珣同郷の画家呉彬や丁雲鵬らの作品にも見られるが、趙珣の線描は如何にも柔らかく、摺曲していることが特徴である。また、本図に描かれた両手を顎下で重ね、立膝をついて草敷きの上に安坐する― 436 ―― 436 ―
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