鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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釈迦の姿が、六年の苦行を経て出山した場面と関わりつつ、寛いだ姿をとる成道の場面とされている(注13)。釈迦の顔には、目のまぶたや鼻筋、ほお骨、唇などの部分は墨線を何度も重ねることによって隈取りを施し、人間らしい顔の明暗表現がなされている。この技法は、趙珣同郷の画家曾鯨(1564~1647)が創り出した「墨骨法」と呼ばれる肖像画技法と結び付けられるが、仏画を画くのに肖像的技法、かつ西洋的な明暗効果を取り込んだ点については、黄檗僧と宣教師、仏画と西洋宗教画との接点を示す早期の作例として、また福建地区の歴史的意味を探究する際により深く考察するに値する問題と考えられる。実はこの作品も早い時期に日本にもたらされ、黄檗仏画の展開に影響を残している。江戸前期の黄檗僧・提宗慧全(?~1668)によって描かれた立膝の苦行釈迦像は、門下である鐵牛道機(1628~1700)が開いた江戸の弘福寺に伝わっている(注14)。趙珣の苦行釈迦像と同じポーズで捉えられているが、顔の細部描写や明暗表現を取り込んだ写実的な肖像表現が見られないことは、逆に趙珣の特色を示していると言えよう。三 趙珣の花卉雑画 ─田能村竹田を中心に─確認できた40点程度の作品を概観すると、趙珣は若年期に著色山水を描いていたが、中晩年以降には枯木竹石、老松、墨梅、蘆雁、蔬果及び仏画等、ほとんど水墨系のものに集中していることがわかる。趙珣筆「蔬果図巻」は、友人の鄭玉鉉に贈られたものであり、石、松、竹などのモチーフに加え、蕪、大根、筍、蓮蓬など旬の野菜を生き生きと描いている〔図10〕。題画詩からも読み取れるように、文人や禅僧の生活の象徴とされる蔬果は趙珣にとっては、むしろ自然や季節の恵みであり、日々の生活に密着したものだったのであろう。このような小さなものへの愛惜や、身近なものに人生の楽しみを見出す心構えは、田能村竹田を思い起こさせる。実際、趙珣は確かに竹田の私淑した明代画家の一人でもあった。竹田「翰墨随身帖」は、そのうち十図は「明人」「清人」に倣って描いたと自ら述べているが、第十一図の霊芝図には「趙十五之璧所作芝草、用筆極簡、施彩亦淡、而多雅致。近日予友紀春琴好而倣此」と記され、趙珣の名前を挙げている〔図11〕。この淡々とした筆致は、趙珣「蔬果図巻」に確かに通じる。友人浦上春琴(1779~1846)がそれを好むため、筆を揮ったと竹田は自述するものの、簡潔にして雅致に富む筆墨に竹田本人も引き込まれたのであろう。また、竹田「月下霜雁図」(天保5、1834年頃作)には、「余嘗於大塩氏家観趙十五之霜雁、筆墨俱逸。此幅後帰于山陽。― 437 ―― 437 ―

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