鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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偶作此幅擬其萬一不能比」という自賛があり、かつて大坂の儒学者大塩中斎(1793~1837)の家で趙珣霜雁図を観たが、筆墨ともに優れたものであったと賞賛している〔図12〕。この趙珣霜雁図はのち中斎から頼山陽に贈られ、その記事が中斎『洗心洞箚記』や山陽の自著からも知ることができる(注15)。心惹かれた趙珣霜雁図を得た山陽は、何度もこの事情を語っていた(注16)。残念ながら、この趙珣霜雁図は現在のところ所在不明だが、栗原彝三編『明清書画款譜』(1881年刊)には原図にあったはずの趙珣の款印、及び山陽の賛文が翻刻されている〔図13〕。また、その模本とおぼしきものが『絵画叢誌』(第2号、1887年刊)に確認でき、幕末明治の南画家瀧和亭による模写である〔図14〕。その他にも、市河米庵の『小山林堂書画文房図録』(1854年刊)にも「趙珣蘆雁図」の一図が収録されている。池大雅による箱書きを伴う趙珣「蘆雁図」が京都個人の所蔵が確認されている。これらの作品はそれぞれ異なる構図をもっており、江戸時代以来、趙珣の蘆雁図が複数渡来し、鑑賞されていたことが窺える。竹田は、「月下霜雁図」の他にも、「月下群雁図屛風」(文政6、1823年)や「蘆雁寒月図」(文化末~天保初年作)など、月夜に蘆雁の絵を数多く手掛けている。彼の湿潤な筆致で描かれたこれらの作品は、趙珣霜雁図と構図や意境が通じる点が多く認められる。それは趙珣霜雁図が強く印象に残っていたためか、竹田が地元の風物に親しみを抱いていたためか、おそらく二人の布衣画家は絵画創作に臨む心構えが通底しているからこそ、共通の美意識や表現方法を生み出したのではなかろうか(注17)。実際には、趙珣の花卉雑画は、竹田を含む江戸時代の文人画家の間で広く流行っていた。浦上春琴筆「花卉果実図」は、様々な野菜や果物を淡彩水墨で描いた巻物であり、そのモチーフや湿潤な筆墨が趙珣「蔬果図巻」と高い親近性を示している〔図15〕。江戸で活動した南画家・春木南華(1818~1866)には「秋圃妖艶」扇面図があり、そこに記された「戊午秋日倣趙珣筆意」の自跋からもわかるように、趙珣の作品を手本にしていたのである〔図16〕。そして明治期になっても、富岡鉄斎筆「雪中牡丹図」には、「嘗観明人趙之璧畫冊中有此圖乃擬其意也」という賛があり、現在見ることのできない趙珣の画冊もかつて存在していたのであろう。四 趙珣の山水画 ─谷文晁を中心に─橋本コレクションに所蔵されている趙珣款「蜀桟道図」には「己末(万暦41、1619年)冬日写似自録詞兄」の落款を持ち、大画面の中央に高く聳え立つ巨山が置かれる構図がとりわけ目立つ。主山には硬くて角張った印象を持ちながらも、弱々しい線描― 438 ―― 438 ―

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