と点描が重ねられている〔図17〕。そして、江戸末期の書画家・貫名海屋(1778~1863)による箱書きが付属し、その弱々しい筆致が「繊裊」や「遊糸描」と評されている。また、関東南画のリーダーである谷文晁(1763~1840)は本図を模写し、現在ではいくつかのバージョンが伝わっている。文晁の弟子に当たる渡辺崋山(1793~1841)も、本図を翻案した作品を制作していた。先行研究において、趙珣と同じく福建出身の画家馬元欽の作品を含め、詳細な考察が行われてきたのでここでは省略したい(注18)。ただ、本図が趙珣の真筆としては考えにくいものの、文晁『画学斎過眼図藁』に「趙珣 群厓図」という実見記録が残されているように文晁が江戸時代以来渡来し続けた趙珣の作品を見ていたことは確かであろう(注19)。趙珣「擬燕文貴海陵観潮図」(京都国立博物館蔵)は、「趙之璧」の落款をもち、崇禎3年(1630)に景翁先生なる人物に贈られたものである〔図18〕。外交官として民国時期の中国に駐在した須磨弥吉郎(1892~1970)の旧蔵品である。彼は中国駐在中に現地の画家と積極的に交わり、斉白石、張大千、徐悲鴻ら清から民国期にかけての近代画家の優れた作品を中心に収集したが、中でも趙珣「海陵観潮図」の存在は異色である。本図における海の表現には、山の形を意識しながらゆらゆら押し寄せてくる波を描き、波打ち際の光を表現するため、下地に影のように暗い墨色を塗り込んでいる。描線には、補筆された部分も認められるものの、淡墨の線に濃墨の線を重ねる柔らかい筆使いが、趙珣「苦行釈迦図」の衣摺線と共通する。山容の表現における短い披麻皴で形態と質感を表した後、点苔を加えて立体感を出そうとする描き方や、穏やかな山並みに至る画面構成は、元代文人画家黄公望をはじめとする呉派山水画への延長線上に位置付けられるものと思われる。特に興味深いのは、画面前景の海の波に浮かぶ船に、一葉の扁舟のような文人的な意象でなく、大福船と呼ばれる福州産の堂々たる海洋船を描く点である。この大福船は「底尖上闊、首昂尾高」という特徴があり、激しい波に耐えるため軍事用とされたが、当時日中貿易でも往来した大型の外洋船である(注20)。福州を中心に活躍し、長崎と頻繫に往来する福州僧らと交際した趙珣は、日常的に慣れ親しんだ福州船を楽しみながら、無造作に描いている。ところで、近代に入り趙珣の本図のような海図が収集された背景としては、やはり江戸時代以来、趙珣の山水図が知られており人気を得ていたことが考えられよう。関東の南画家・高久靄涯(1796~1843)が模写したとされる『明清名家巾箱画譜』(明治13、1880)には、趙珣「燕磯脩帆」という江浜図が収められている〔図19〕。中遠景には水面が広がり、特に前景の山に生える松の表現は、先の「海陵観潮図」とよく似ている。また、市河寛斎に師事し、文晁とも交遊のあった雲室上人(1758~1827)― 439 ―― 439 ―
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