鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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注⑴ 趙珣についての先行研究は、近藤秀実「明末福建莆田出身の画家達、曾鯨・呉彬・趙珣:日本との関係を中心に」(『多摩美術大学研究紀要』26号、2011年)、同「幻の趙珣」(『多摩美術大学研究紀要』27号、2012年)、黄嫻「莆田明末画人趙珣及作品研究」(『福建文博』2017年第1期)が挙げられる。⑵ 鄭王臣編、沈德潛ほか校『莆風清籟集』、曹士甲編『閩詩傳初集』、国立公文書館蔵本。⑶ 曹学佺『曹大理集』、国立公文書館蔵本。⑷ 徐『鼇峰集』、国立公文書館蔵本。⑸ 徐『紅雨楼集』、上海図書館蔵抄本。『上海図書館未刊古籍稿本』(復旦大学出版社、2008年)⑹ 陳鴻『閩陳叔度先生秋室集』、国立公文書館蔵本。本書の巻頭に「佐伯侯毛利高標字培松蔵書画之印」の印が捺されていることから、大名毛利高標(1755~1801)の旧蔵であったとわかる。⑺ 張穆『鉄橋集一巻補遺二卷 附錄三卷』何氏至樂樓鈔本影印本、京都大学人文研蔵本。⑻ 『紫川館蔵書画落款譜』、東京藝術大学図書館蔵本。⑼ 許友『米友堂詩集』、国立公文書館蔵本。⑽ 益智旭著、釋成時編『靈峰益大師宗論』、漢籍リポジトリを参照。が編撰した『山水徴』(文政6、1823)には、趙珣の山水図の一幅が翻刻されている。趙珣の山水画が、京都の文人画家が好んだ花卉雑画とは異なり、谷文晁を中心とする関東の南画家たちの間で特に愛好されていたのは好対照である。結び以上を見てくると、生涯にわたり詩・画・仏の業に勤しんだ趙珣の姿が目に浮かぶようである。その作品の表現を通覧するに、おおむね雄勁で濃密な作風と、湿潤な淡墨で淡雅な作風とに分けることができる。彼の作品は福州を中心とする渡来僧によって日本にもたらされ、贈答用のほかに、僧たち自身の絵画学習の手本ともなった。画題の上で黄檗僧をはじめとする日本の初期文人画と重なるものが多く認められる。そして「蘆雁図」「蔬果図巻」などの淡々たる作品は上方の頼山陽、田能村竹田、浦上春琴の間で人気を得て、明治期まで流行していた。さらに「蜀桟道図」のような山水画は関東の谷文晁周辺で受け入れられたことがわかる。仏教信者として地元の僧侶と深く関わっていた趙珣は、仏画も多く手掛けていたはずであったが、現存するものは一点しか確認できない。その西洋的な明暗効果を取り込んだ表現については、黄檗僧と宣教師、仏画と西洋宗教画との接点を示す早期の作例として、また福建地区の歴史的意味を探究する際において、より深く考察するに値する問題だと考えられるが、この点についてはまた今後の研究の課題としたい。第42~44冊に本書の影印本を収めている。― 440 ―― 440 ―

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