(2)『絵本手引草 初編』(黄雀文庫本)形状・丁数:彩色摺 中本一冊 20丁版元:伊勢屋平吉序文:柳下亭種員改印:「村田」外題:絵本手引草 初内題:絵本手引草 初編制作年:嘉永2年(1849)孟陬(序文)写実的な「写真(しょううつし)」と、簡略化した「草筆(草意、草画)」という2種の描法を用い、草花と魚介類の描き方を説明している。冒頭には、広重の自序として「画(え)は物のかたちを本とすなれば、写真(しょううつし)をなして是に筆意(ひつい)を加ふる時は則(すなわち)画なり」と書かれており、モティーフを見たままに写し取る「写真(しょううつし)」(写生、スケッチ)を基本とした上で、そこへ絵師の表現意図や筆遣いといった「筆意」を加えるという、広重の作画理念が読み取れる。草花と魚介類を中心とすることから、〔表1〕では「花鳥画」が94%となっているが、その内訳は草花が51%、魚介類が43%であった。制作年:嘉永5年(1852)10月(改印)仲田氏は本書を「松林堂版」としている(注7)。内田實氏は「錦昇堂版」とするも、「萬延二年の序文あり。(三篇は死後の出板なれども、嘉永五年の検閲印据われり)。(注8)」と、広重の没後にあたる万延2年(1861)の出版であることを指摘している。松林堂(藤岡屋慶次郎)版の本書および万延2年の序文については、この度の調査では確認することができなかった。ご教示を仰ぐとともに、今後の課題としたい。なお、錦昇堂(恵比寿屋庄七)より出版されている筆者蔵本では、20丁のうち4丁において袋綴じの内側に笠亭仙果『比翼仕立二人権八』(編数不明、嘉永5~安政元年(1852-54)刊)の一部の紙葉が使用されていた。改印は弘化4年(1847)まで用いられていた名主単印の形式だが、序文に「嘉永巳酉孟陬」とある(注9)。後見返し奥付などで後編の制作を予告しているが、実際の出版は確認されていない。後摺と思しき中山道広重美術館本では、序文の「巳酉」が削られ「嘉永 孟陬」のみとなる。さらに、後見返し奥付の版元が「笑寿屋庄七」(恵比寿屋庄七)に変わる。『草筆画譜』3冊と同様に、錦昇堂(恵比寿屋庄七)へ版権が渡ったことが分かる。― 448 ―― 448 ―
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