鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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密な描線を用いている。後摺と思しきメトロポリタン美術館本(注14)では、表見返しの「尾張東壁堂蔵板画譜畫手本目録」が変更され、27冊に増えている。裏見返しに示される版元は「尾州名古屋本町通七丁目 永楽屋東四郎/江戸日本橋通本銀町二丁目 同 出店」と、東壁堂(永楽屋東四郎)のみとなる。本書は序文に年月が記されておらず、改印も確認されていない。明治5年(1872)2月段階での名古屋県管内の書林と蔵板書を示した『名古屋縣管内蔵板箇所取調書』には、『浮世画譜』三冊が「天保六年官許」と記されている(注15)。そのため、三編にあたる本書を天保年間の出版とみなす場合もある。一方、大久保純一氏は広重の落款書体から、本書を嘉永年間頃の出版であると推測している(注16)。さらに、松田泰代氏は「尾張東壁堂製本畧目録」の板木について、最後の改変が嘉永5年以降であることを明らかにしている(注17)。この最終的な改変時点において、松田氏は安永4年(1775)から嘉永5年(1852)までの書籍を網羅していることを指摘しているが、『浮世画譜』は「二編」までしか示されていない。よって、『浮世画譜 三編』は嘉永6年以降の出版であると考えられる。なお、嘉永元年の英泉没後に広重が三編を制作したこととなるが、その理由については明らかにすることができなかったため、今後の課題としたい。2 広重絵手本の制作意義前項から、広重の絵手本を刊行順に並べると以下の順となり、嘉永年間(1848-54)においてほぼ毎年集中的に制作されていたことが分かる。『草筆画譜 初編』嘉永元年(1848)『絵本手引草 初編』嘉永2年(1849)『草筆画譜 二編』嘉永3年(1850)『略画光琳風立斎百図 初編』嘉永4年(1851)『草筆画譜 三編』嘉永5年(1852)10月『浮世画譜 三編』嘉永6年(1853)以降広重の絵手本を含む絵本類の制作が嘉永年間(1848-54)に活発化する理由として、鈴木重三氏は広重の金銭状況を挙げている(注18)。また、嘉永2年秋から嘉永4年頃にかけて、広重は出羽国天童藩織田氏の依頼で「天童広重」と呼ばれる肉筆画群を制作している(注19)。「天童広重」の後も肉筆画制作は続けられ、安政年間(1854-60)には「十二ヶ月風― 451 ―― 451 ―

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