俗図」(原安三郎コレクション)を手掛けている。このうち、「三月 花見」と「十一月 顔見世」および『略画光琳風立斎百図 初編』の図様の共通性から、筆者は絵手本制作には肉筆画を含む晩年の画業において、構図を精錬する意味あったのではないかと考察をした(注20)。本節では、さらに広重の絵手本における図様整理としての意義に考察を加えたい。広重の絵手本に描かれた図様には、「顔見世」のような人物画だけでなく、風景画においても肉筆画や錦絵との一致が確認できるものがある。例として、嘉永5年(1852)10月の改印を有する『草筆画譜 三編』14丁裏「上毛 榛名山」〔図6〕および同6年以降の出版と考えられる『浮世画譜 三編』9丁表〔図8〕を取り上げる。広重は、嘉永6年(1853)8月の改印が付された「六十余州名所図会 上野 榛名山雪中」〔図7〕においても同じ場所を描いている。榛名山は、赤城山や妙義山と共に、現在の群馬県に位置する上毛三山の一つに数えられている。本図は、降り続ける雪で一面覆われた冬の景である。境内の行者渓に架かる朱塗りの懺悔橋と東面堂、境内茶屋を捉えている。屹立する奇岩は、火山性噴出物が風化し形成されたという。本図の典拠について、鈴木氏は淵上旭江画『山水奇観』(享和2年(1802)刊)の挿絵「上野榛名山」を挙げている(注21)。一方、大久保氏は『山水奇観』に行者渓や東面堂が描かれていないことから、大英博物館蔵『スケッチ帖』〔図5〕との関連性を導き、広重が実際に当地を訪れ写生を行った可能性を考察している(注22)。さらに、「天童広重」に属する肉筆画「上野榛名山雪中」(嘉永2~4年頃、太田記念美術館蔵)も同じ図様であることを指摘している。大英博物館の所蔵する『スケッチ帖』は4冊確認されているが、巻末に添付されている『絵本江戸土産』の表紙から、それぞれ「二」「四」「五」「六」の番号で区別されている。このうち、榛名山の図は「二」「四」「六」に確認できる。楢崎宗重氏は、「四」と「六」を肉筆竪幅用の構図スケッチ集と考えている(注23)。「二」の成立について、楢崎氏は嘉永元年の信州旅行におけるスケッチとしているが、浅野秀剛氏は天保8年(1837)頃に旅をした際のスケッチである可能性を指摘している(注24)。いずれの説においても、絵手本や「六十余州名所図会」に先んじて制作されている。整理すると、天保8年もしくは嘉永元年の『スケッチ帖』「二」の後、嘉永2~4年に肉筆画「上野榛名山雪中」(太田記念美術館)を手掛け、さらに嘉永5年(1852)10月に『草筆画譜 三編』、そして嘉永6年(1853)8月に「六十余州名所図会 上野 榛名山雪中」、また『浮世画譜 三編』を描いた順となる。『草筆画譜 三編』14丁裏「上毛 榛名山」は縦に長い枠を用いていることからも、肉筆画が念頭にあった― 452 ―― 452 ―
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