可能性がある。よって、自身のスケッチを肉筆画に生かした上で、さらに絵手本に図様を収め、錦絵にも転用したと考えられる。また、『草筆画譜 三編』11丁裏「田毎月」〔図11〕も、嘉永6年(1853)8月の改印を有する「六十余州名所図会 信濃 更科田毎月 鏡台山」〔図12〕とほぼ同構図をとっている。広重は天保後期にも「本朝名所 信州更科田毎之月」を描き、また大英博物館蔵『スケッチ帖』「二」〔図9〕や挿絵を手掛けた狂歌入絵本『岐蘇名所図会』(嘉永4~5年(1851-1852)刊)〔図10〕でも同じ場所を描いている。大久保氏は、モティーフの細部が一致することから、「上野 榛名山雪中」と同様に『スケッチ帖』を基にした可能性を指摘している(注25)。広重の門下にあたる二代歌川広重(文政9~明治2年(1826-69))も『広重画譜』(文久2年(1862))において「信州更科田毎月」〔図13〕をほぼ同構図で描いており、広重による構図の精錬は門人にも活用された可能性がある。おわりに本稿では、広重が嘉永年間に手掛けた絵手本6冊の書誌的情報を整理し、錦絵や肉筆画との関連性について考察を行った。まず、この度の調査により、版権移譲後の後摺であるにも関わらず『草筆画譜』初編および二編(川崎・砂子の里資料館本A)への雲母摺を確認することができた。このことから、特にこの2冊は、教本としての実用性だけでなく高い鑑賞性も意図した可能性が指摘できる。さらに、『浮世画譜 三編』については嘉永6年(1853)以降の出版であることを明らかにした。また、『浮世画譜 三編』以外の5冊は、最終的に錦昇堂(恵比寿屋庄七)および文昇堂(熊谷庄七)へ版権が移譲されており、『略画光琳風立斎百図 初編』は『草筆画譜 四編』、『絵本手引草 初編』は『草筆画譜 五編』に改編されていた。錦昇堂の堂号が文昇堂へ変わる明治8年(1875)以降にも、広重の絵手本が出版され続けていたことが分かる。外題が楷書の『草筆畫譜 初編』『草筆畫譜 貮編』(川崎・砂子の里資料館本Bおよび太田記念美術館本)も、表見返しおよび裏見返しに版元の記載がないものの、外題の形式に共通性がみられるため錦昇堂(恵比寿屋庄七)または文昇堂(熊谷庄七)による出版と考えられる。さらに、図様選択については、『絵本手引草 初編』や『略画光琳風立斎百図 初編』など特殊な事例を除き、基本的には人物と風景を中心としており、広重への需要は特にこの二つにあったと推測できる。また、「写真」「草筆」「略画」などの描法を― 453 ―― 453 ―
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