鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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注⑴ 仲田勝之助編校『浮世絵類考』岩波書店、1941年、193頁。⑵ 中山創太「浮世絵師にみる絵手本利用の一考察─中国画譜を源流とする歌川派の作品を中心に⑶ 藤澤紫「版本の変遷と判型」『浮世絵の鑑賞基礎知識』1996年、至文堂、155頁。ただし、実際⑷ Smithsonian Libraries(https://library.si.edu/digital-library/book/sohitsu-gafu 2024年5月⑸ 大英博物館コレクションオンライン(https://www.britishmuseum.org/collection/object/A_1915-0823-0-149 2024年5月20日最終閲覧)⑹ 注⑷参照。⑺ 仲田勝之助『絵本の研究』美術出版社、1950年、112頁。⑻ 内田實『廣重』岩波書店、1932年、91頁。⑼ 「嘉永巳酉孟陬」の記載がある黄雀文庫本については、大久保純一氏よりご教示いただいた。平木浮世絵財団編『華 浮世絵名品集 風景・花鳥画』(2004年、54-65頁)に同氏による詳しい解説と各丁の図版が掲載されている。⑽ 拙稿「歌川広重の琳派受容に関する一考察─「略画光琳風立斎百図』を中心に─」筑波大学芸自在に使い分けていたことがうかがえる。そして、『スケッチ帖』および天童広重や錦絵との関連性から、広重の絵手本制作について多作期における図様整理としての意義を考察した。『絵本江戸土産』に「名所江戸百景」の下地となっている図があることは既に指摘されているが(注26)、多種多様な図様を収めた絵手本も「六十余州名所図会」や「名所江戸百景」などの大規模な揃物を控えた上で、同様の役割を担っていたものと考えられる。なお、英泉は『浮世画譜 二編』において東海道の各宿場を取り上げているが、広重の絵手本における風景画は全て江戸もしくは諸国の名所であり、街道の宿場風景は描かれない。広重は狂号に「東海堂歌重」を用い、天保7~8年(1836-37)頃の「木曽海道六拾九次之内 軽井沢」でも「東海堂」の印を使用している。嘉永6年(1853)の浮世絵師番付『江戸寿那古細撰記』において広重は「めいしょ」として記載されているが、嘉永年間には「東海道」ではなく「名所」の絵師としての需要が高かった可能性がある。広重に対する需要の変化については、今後の課題としたい。謝辞本稿執筆に際する作品調査および図版掲載にあたり、所蔵館の皆様にご高配を賜りました。末尾ながら心より感謝を申し上げます。─」『東アジア文化交渉研究』5、2012年。には観賞用として受容されることが多かったという。20日最終閲覧)― 454 ―― 454 ―

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