鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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㊶ インドネシア近代美術における主題としてのマハーバーラタについて─アグス・ジャヤの作例を中心に─研 究 者:九州産業大学 非常勤講師  羽 鳥 悠 樹はじめにインドネシア近代美術史の形成期にあたる1930年代から40年代前半にかけては、インドネシアという国民国家の誕生、脱植民地化へと向かう時代背景とともに、画家は押し並べて絵画のインドネシア性を追究していたと理解されてきた。旧来の甘美で理想化された外国人の趣味に迎合した風景画に対して、表現主義的な様式で新しいインドネシアの様式を模索したという二項対立的な図式のなかで、若きインドネシア人画家たちの画業は後者の役割を担うものとして一元的に解釈されてきたのである。このような歴史観は、アメリカのインドネシア研究者であるクレア・ホルトによって1967年に発表されたインドネシア近代美術史に関する最初の学術的研究で示されて以降定説化した(注1)。特に、1938年に設立された、インドネシア近代美術における最初期の自覚的な近代美術運動の中心的役割を担ったインドネシア画家協会(通称プルサギ、PERSAGI:Persatuan Ahli-ahli Gambar Indonesia)については、ホルト以降も多くの研究者によってその重要性が指摘されてきた。しかし、現存作例や資料の少なさから、それ自体を対象とした研究はあまり進展していない。そうしたなかで、インドネシアの美術研究者スダルマジによって書かれた論文が、数少ない先行研究として挙げられる(注2)。スダルマジは、プルサギのメンバーへのインタビューを通して、プルサギ設立の目的が「新しいインドネシアの様式を求め、インドネシア人のなかで美術を発展させること」であったと指摘し、そのためのアプローチの方向性がいくつか存在したと述べている。その一つの例として、プルサギの設立者の一人である画家アグス・ジャヤ(Agus Djayasuminta, 1913-1994)とその弟のオットー・ジャヤ(Otto Djayasuntara, 1916-2002)が、インドネシアにある遺跡のレリーフなどに学んだことを指摘しているが、具体的な作品への言及はない。このように、インドネシア近代美術史研究においては、作品研究が決定的に不足しており、実際にその新しいインドネシアの様式というものが、それぞれの画家によってどのような社会的状況下でどのように表現されたのかということは、これまで詳細に論じられることはなかった。筆者はこうした状況に鑑み、インドネシア近代美術の父と称され、プルサギの設立者でもあるスジョヨノによって制作された油彩画《チャプ・ゴー・メー》(1940年)― 459 ―― 459 ―

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