鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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が興味深い文章を残している。彼は、インドネシアの伝統芸術の一つであるワヤン・クリに着想を得て描かれたスロモ(Suromo Darposawego, 1919-2003)のNo. 48《東洋の踊り》を「東洋と西洋の統一を試みた」作品として高く評価し〔図5〕、さらに次のように指摘する。我々は、《東洋の踊り》のような性質を持った作品がどれくらい出品を拒否されたのかは分からない。およそ160点程の作品が送られたと聞くが、結果としてそのうち100点余りは良いものとは見なされなかった。そのなかには、「東洋」の芸術、インドネシアの芸術のなかに、制作の動機やテーマを求め実現しようとしたものもあった。(注4)サヌシ・パネによれば、本展には約160点の作品が送られたようだが、そのうち約100点は展示されることはなかった。その中には、東洋の美術、インドネシアの美術を志向したものもあったが、それらが展示されなかったことに批判的な眼差しを向ける。展示されなかった作品群が、実際にどのような傾向をもつものだったのかを知ることは現段階では難しい。一方で、同展を構成する作品の選定には、バタヴィア芸術協会側の思惑が多分に影響していた可能性があるということは、この時期のインドネシア人画家の表現を考える上で、極めて重要なことと思われる。当時のインドネシア美術界における権威的な存在であったバタヴィア芸術協会で展示を実現するためには、協会側の意向にある程度沿う必要があり、インドネシア人画家たちは、そうした状況下で自分たちの新しい様式というものを模索しなければならなかったということを意味するからだ。1942年に入ると、日本軍が次々とオランダ領東インドに侵攻、占領し、同年3月にはジャワを陥れ、陸軍第16軍が軍政を敷いた。軍政は翌年の1943年4月に啓民文化指導所という組織を作る。「主として芸能文化の面から民衆の啓蒙自覚を促すべく」創設された同組織は、「本部、事業部、文学部、音楽部、美術部、演劇部の六部を置」き、「専ら原住民を職員とし日本人は指導委員として」「両者協力して事業を運営」を目指した(注5)。アグス・ジャヤは美術工芸部長として、啓民文化指導所で活動していくこととなる。1943年11月に啓民文化指導所によって開催された明治節奉祝美術展覧会にて、アグス・ジャヤの《戦争》という作品が、軍政監賞を受賞している〔図6〕(注6)。現在は白黒図版でしか確認できないが、ワヤンのような形態をした人物が、弓矢を用いて― 462 ―― 462 ―

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