月8日、Sun Fire Office秘書室からエフィー宛)当該作品はホルバインの《ロレーヌ公爵アントンの肖像画》(1532-1543年、ベルリン美術館、注5)であり、ここに端的に示されるように、所蔵品の所在や保険もまた、エフィーの担うところであった。その生来の社交性と最初の結婚生活で築いた人脈を生かし、エフィーは顧客開拓と絵画制作の受注においても大いに活躍した。例えば、すでに論じられている通り、肖像画《ハントリー侯爵夫人》(1870年、個人蔵)〔図1〕はエフィー持ち前の交渉術が生かされた好例である。1869年5月、ロンドンで催されたパーティーに出席した彼女は、マンチェスターの銀行家・保守党議員ウィリアム・カンリフ・ブルックスを説得し、その娘(後のハントリー侯爵夫人)の2000ギニーの肖像画の依頼をとりつけた。(注6)本依頼に関連し、G. M. コレクションには、依頼人の娘で本作の像主であるエイミーからエフィーに宛てた次のような書簡が残されている。カーバンクルとダイヤモンドの腕輪を送ります。ミレイ氏のお気に召すといいのですが。これは父から贈られたもので、白いドレスによく似合うと思います。無事到着した旨を確認するため、お手元に届き次第お返事ください。もしこちらの腕輪がミレイ氏のお気に召さないようでしたら、メンデル夫人からいただいた、中央に真珠と2つのダイヤモンドがあしらわれた金製の帯状の腕輪をお送りすることもできます。(1870年2月11日、ミレイ夫人宛)この書簡からは、作中で用いる装身具について画家と像主の間で何らかの話し合いがあったことがうかがえる。本書間と共に赤い宝石(おそらくルビーかガーネット)とダイヤモンドのあしらわれた腕輪が送られたが、最終的な油彩画では、文末で提案されている金製の腕輪が描かれており、これ以降にも装身具をめぐるやりとりがあったのだろう。推測の域をでないものの、これまでもモデルの衣装の調達や縫製をおこなってきたエフィー自身の意見が、本作の装身具を決定するうえで多少なりとも影響した可能性がある。顧客対応の別事例として、1889年2月から11月にかけてメアリー・ステュアート・フィリップスからエフィーに宛てられた三通の書簡を挙げたい。フィリップス家はキルトをまとう兄妹を描いた《二人のこども》(1889年、所在不明)の依頼主で、三通は、価格の相談にはじまり、ひいてはうち一人の描き直しのためアトリエへの再訪につい― 35 ―― 35 ―
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