鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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(1) 彫像と画像の関係(2) 大峯山上の役行者像次に各検討課題について現段階での見解を示す。2 図像分類で得た検討課題と重要作例の制作背景現存最古の在銘像である弘安9年(1286)慶俊像(系統1-2)は、足の構えや衣の襞の細部が聖護院や金峯山寺に伝わる役行者画像と一致する。左右の足の微妙な高さの差は、正面から礼拝する彫像につけられたというよりは、役行者を斜めから捉えた画像に基づき制作されたため生じたとみられる。慶俊像像内の腹部・背部には造立時の墨書がある。腹部には「弘安九年丙戌六月十八日造立之大願主金剛仏子阿闍梨長命持光坊/大仏師慶俊伊予公(後略)」、背部には「(前略)弘安九年丙戌六月十八日造立之大願主金剛仏子長命/南無八大金剛童子南無両部界会諸尊」と書かれ(注6)、八大童子への信仰も表明されており、聖護院本・金峯山寺本の役行者の周りに描かれる大峯八大童子を連想させる。12世紀後半~13世紀初頭の制作で現存最古の役行者彫像とされる円楽寺像(系統3-1)は江戸時代には富士山二合目の役行者堂に祀られていた(注7)。今回の調査でトチノキ材製であることがわかり、広葉樹材製の二鬼像とは一具ではないことがわかった。役行者像は頭巾の襞や忿怒の表情の一致から醍醐寺の役行者八大童子画像と同図像であった可能性が考えられる。円楽寺像の像内には延慶2年(1309)の修理時の墨書に「〈第一行消失〉/幷八大童子□□□□/延慶二年五月□□/奉修造ノ絵師□□/□□花供山師阿□□」と書かれており、八大童子像も共に修理を受けたとみられる。このことから、役行者像と八大童子像が同時もしくは近い時期に制作された一具のものであり、醍醐寺本により近い群像であった可能性が考えられる。このように、現存する役行者像の彫像の中でも古い作例とされる2例がいずれも画像に基づいて制作された可能性が考えられる。聖護院画像と醍醐寺画像には八大童子や白犬など構成要素が共通し、共通の祖本となる画像が存在した可能性もあろう。円楽寺像などの彫像に先行して画像が制作されていたとする場合、役行者図像は遅くとも12世紀後半には存在していたとみられる。現存作例の銘文より、大峯山上に祀られていた役行者像の図像には少なくとも2系統あったことがわかった。1つは南都繁田三位法橋が制作し、現在も山上の大峯山寺に祀られる大峯山寺本堂像(系統1-1)、もう1つは現在奈良国立博物館所蔵で享保― 485 ―― 485 ―

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