鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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(3) 大峯山上の役行者御影供と図像の形成6年(1721)まで山上に祀られていた慶俊像(系統1-2)である。大峯山寺本堂像の像底には「応永三十三年丙午六月七日再興施主金剛仏子定善 仏師作南都繁田三位法橋 塗師大工五郎次郎 三郎五郎」と墨書があり(注8)、室町時代応永33年(1426)の制作とわかる。しかし系統1-1の現存作例より、同図像がもっと古くから山上の役行者像として受容されていた可能性も考えられよう。系統1-1の作例に、元徳3年(1331)銘のある輪王寺板絵役行者八大童子像や、鎌倉~南北朝時代に遡る吉野曼荼羅に描かれた役行者像などがある。これらの吉野曼荼羅は南都絵仏師が描いたと考えられており、清賢筆とされる宝積院の法起菩薩曼荼羅にも同図像が用いられる。大峯山寺本堂像の二鬼像が現在金峯山寺に伝わる鎌倉時代の二鬼像の姿と酷似することからも、この図像が鎌倉時代に遡り、大峯山上に祀られる役行者像の図像として南都で受容された可能性が考えられる。一方、弘安9年(1286)に役行者像を制作した慶俊は、建長元年(1249)に善慶の西大寺釈迦如来像、文永5年(1268)に善春の元興寺聖徳太子像のそれぞれの造像に携わり、叡尊に重宝された善派に関わりの深い仏師とされる(注9)。ここで、慶俊の造像の3年後の正応2年(1289)に「般若寺上人」らが勧進し、大般若経を一日頓写し山上に奉納したこととの関連が注目される(注10)。書写は五畿内の複数の寺院で行われたようだが、このうちに西大寺宝生護国院が含まれる。「般若寺上人」は叡尊(1201~1290)の高弟であり後醍醐天皇護持僧の文観(1278~1357)の師である信空(1231~1316)と考えられ、慶俊を起用した役行者像の造像と大般若経奉納に西大寺の叡尊一派の関与がうかがえる。17~18世紀に吉野山内で記された『義遍聞書草案』には、応永14年に大峯山上御影堂に新造役行者像が安置されると正応2年写の経を用いて大般若経転読が行われたとあり(注11)、役行者像と大般若経が室町時代にもなお一連の宝物として意識されていたことがわかる。慶俊像造立と正応2年の大般若経奉納が西大寺僧による一連の事業と認められれば、慶俊像が依拠した画像も西大寺僧が指定したものであった可能性が考えられよう。役行者と大般若経の関わりについては、興福寺の蔵俊─覚憲─貞慶の師弟を中心に喧伝された、役行者が『華厳経』諸菩薩住所品の金剛山に住む法起菩薩と同体であり、般若を説く法涌菩薩と同体であるとする説(注12)が背景にある可能性も想定される。弘安元年(1278)以降鎌倉時代後期成立の『金峯山創草記』(注13)によると、大峯山上で役行者御影供がはじめられたのは白河法皇(1053~1129)が金峯山詣を行っ― 486 ―― 486 ―

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