てから間もない康和5年(1103)のことである。神山登氏は山上の役行者御影供が創始されたことが役行者像の形成の契機であったとしている(注14)。この頃役行者像が形成されたと仮定したら、それはどのような図像だっただろうか。冒頭でも述べたように、役行者像には神仙の図像が投影されている。白河法皇の金峯山詣に際して願文を記した大江匡房は、日本で最初の神仙にまつわる伝記『本朝神仙伝』を承徳2年(1098)頃に著しており、ここに取り上げる37人のうち5人目を役行者としている。役行者御影供が始まったとされる頃、役行者は間違いなく神仙として捉えられていた。この頃流布していた神仙の図像の中で、ここでは千手観音の眷属の婆藪仙に注目したい。千手観音の眷属二十八部衆については、清水寺定深が寛治6年(1092)に草集し、承徳2年(1098)に成立させた『千手二十八部衆釈』がある(注15)。本書は宋から新しくもたらされた摸印本も参照しつつ伽梵達摩訳『千手陀羅尼経』の43句の偈を解釈するものであり、43句のうち29句に説かれる千手観音の守護天神28部の尊名について、従来の理解を訂正し解説を付している。20番目は「大仙衆」といい、定深は「此の一部を開き更に二十八と為す。四方各七を取るなり。金剛髻珠菩薩修行分経作壇法云はく、復た諸山の持呪仙を画く。是の如く呪神二十八を一々方面に各七呪仙を図す(略)」と説く。続く21番目は金剛孔雀王であり、鳩摩羅什訳『孔雀王呪経』と不空訳『仏母大孔雀明王経』を引用して解説する。これら20・21句の偈について定深は「第十両句 所持能持の一双なり。いわゆる孔雀王に所持の呪法あり。大仙は此れに依り能持の功あり」と解釈する。つまり定深は孔雀王と大仙衆を呪法を持される者と持する者の対として理解しているのである。定深が引用した『孔雀王呪経』『仏母大孔雀明王経』では、大仙は名号を称念して佛母大孔雀明王による擁護を祈る複数の対象のうちの一つではあるが、その中で特別目立つ尊格ではない。定深は『日本霊異記』(810~824年成立)以降『三法絵詞』などに繰り返し「孔雀の呪法」を使うと説かれてきた役行者イメージを通して第十両句を解釈しているのではないだろうか。永保3年(1083)写の観智院本『二十八部衆形像』は『千手二十八部衆釈』と守護天神の尊名がほとんど一致しており、定深もその内容を知っていたと考えられるものであるが、ここでは大仙衆の姿について「廿大仙衆 仙人形也。左手挙臂持経巻也。右手当胸持杖著袈裟也。膝露形也」と説く。左手は臂を挙げて経巻を持ち、右手は胸に当てて杖を持ち、袈裟を着け、膝を露わにするという図像は、錫杖を杖と見なせば櫻本坊像に代表される系統2の役行者図像に近い。平安時代の仙人像は裸形か蓑のみを着るものが多く、役行者像と異なるが、『二十八部衆形像』の説く袈裟を着る仙人の図像は、― 487 ―― 487 ―
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