まさに役行者の姿にあたる。白河法皇の参詣当時吉野山の中心であった石蔵寺は、『金峯山創草伝』に「石蔵寺観音堂 当山根本堂。本尊千手観音」とあるように千手観音を本尊としており、二十八部衆信仰が受容される素地はあったと考えられる。同時代の他の霊山における事例として、信貴山の命蓮説話の飛鉢や剣の護法などの諸要素が定深『千手二十八部衆釈』や大江匡房著作を初見とすることが指摘されている(注16)。平安時代後期に山中の聖に関連して千手観音二十八部衆が注目されていたこと、現存する役行者像にも『二十八部衆形像』の記述と類似する図像系統がことが確認されたことで、『金峯山創草伝』に記される康和5年(1103)の役行者御影供の創始を史実とみて、これに伴い役行者像が形成されたとする可能性は高まったのではないだろうか。12世紀初頭に始まった役行者御影供は、弘法大師の御影供が画像を本尊としたように、画像を本尊とした可能性があろう。鎌倉時代の延応2年(1240)に東寺御影堂で宣陽門院の援助のもと制作された弘法大師坐像を本尊とする御影供が始まったように、役行者御影供の本尊が画像から彫像にうつされたのは鎌倉時代のことだったのではないだろうか。円楽寺像や慶俊像が画像を細部まで模した彫像であるのも、伝統的に役行者御影供の本尊は画像であるとの考えが浸透していたためかもしれない。おわりに持物と手の構えを軸とした分類により図像を6系統に大分し、大峯山上に祀られた役行者像が図像流布に影響を与えたと考えた。白河上皇や大江匡房が金峯山に参詣した12世紀初頭に大峯山上で始まった役行者御影供のために役行者の図像が形成されたと仮定した場合、千手観音二十八部衆のうちの袈裟を着る仙人・大仙衆が図像形成に関わっていた可能性を示した。また最初期の役行者像は画像が主流であり、鎌倉時代に彫像制作への転機を迎え、円楽寺像や慶俊像が画像をもとに造立されたとの見通しを示した。今後の課題は、12世紀初頭に大峯山上御影供の本尊として系統2のような図像が祀られたとして、12世紀後半までに系統1-2、系統3-1のように持物や眷属を変化させるまでにどのような図像をとりこんだか検討することである。特に、ほとんどの系統でみられる独鈷杵については、松尾寺の役行者八大童子像の持物が巻子から独鈷杵に描き変えられていることも参照すべきであろう。現段階では推論を重ねた点が多いのが反省点だが、今回選定した重要作例の制作背景についてより詳細な分析を行い、役行者に投影された理想の山岳修行者像を平安時代からの延長として理解できるよ― 488 ―― 488 ―
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