2-2.マルクス・アウレリウスの記念柱浮彫りなつくりの船であり、〔図1〕がその例である。次にマルクス・アウレリウスの記念柱浮彫りについて見てみたい(注12)。193年以前に建設されたマルクス・アウレリウスの記念柱は、高さ10メートルほどの台座、その上に設置された円柱、頂上の彫像から構成される。円柱部分には浮彫りとしてマルクス・アウレリウスによる北方遠征の様子が螺旋状に表される。記念柱内部には頂上まで続く螺旋階段があり、頂上には元来、皇帝マルクス・アウレリウスと皇后ファウスティナの彫像が建てられていたとされる。皇帝マルクス・アウレリウスは161年から180年まで在位し、パルティアや北方への遠征を行っただけではなく、『自省録』を著した人物としても知られる。マルスの野の北側に位置するマルクス・アウレリウスの記念柱の周囲には、アウグストゥスのマウソレウムやアントニヌス・ピウスの記念柱、他にも祭壇など葬礼関係の記念碑が建設されていた。記念柱の場所には元々住居があったとされ、その近くには集合住宅が存在したことも知られている。マルクス・アウレリウスの記念柱はトラヤヌスの記念柱と類似している点も多く、おそらく、前者は後者を参考にして建設されたのだろうとされる。例えば、両者の円柱部分の長さはいずれも100ローマン・フィートであるだけでなく、円柱浮彫りにはいくつもの類似する場面が認められる。マルクス・アウレリウスの記念柱浮彫りには全部で36隻の軍艦表現が見受けられる。36隻を役割に着目して分類すると、トラヤヌスの記念柱同様、3つの役割を担い表現されていることが判明した。一つ目は物資の輸送であり、そのような例は5つ表される。〔図4〕(場面2) では、柵に囲まれた町を背景に、手前には二隻の船が停泊しており、右側の船では兵士が樽を運んでいる(注13)。二つ目は人員の輸送であり、9隻がそのように表現される。〔図5〕(場面34)には二隻の船に乗り河を渡るローマ兵が表現されている(注14)。上の船には三人の兵士が表現され、その頭部は削り取られてしまっているものの、同様の武具を装備し、膝を曲げて立つ。下の船にも三人の兵士が表現されているが、上の船とは違い、それぞれ異なる鎧を身に着ける。三つ目は、橋脚の代りの浮船として表される場合であり、そのような例は22隻見られる。〔図6-1、6-2〕(場面84) には連ねられた4隻の浮船の上に設置された橋を渡り、河を越えるローマ軍が表現される(注15)。8人のローマ兵が表されるが、そのうち5人は馬と共に表されている。マルクス・アウレリウスの記念柱浮彫りに表される軍艦表現は1つのタイプしかなく、全てが簡素なつくりの船として表される〔図4、5、― 495 ―― 495 ―
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