ソン(トッティー)の四人の娘たちが幼少期からモデルとして頻繁に作品に登場し、「こどもの肖像画家」としての父親の成功に一役買ったことは、すでに論じられているが、彼らもまた成長に伴い、モデル以外の役割を自然と担っていった。彼らの積極的な関わりにより、当初夫婦間でおこなわれてきた絵画制作・販売業は、ますます家業の様相を帯びることとなる。例えば、1868年7月10日、バワーズウェルの母親の実家に滞在するメアリーは、父親に宛てた手紙で真っ先に制作の進捗を尋ねている。また1878年1月6日、次男ジョージの療養のためメアリーとともにカンヌに滞在する母に宛てて、父親と共にロンドンの自宅にとどまる20歳のエフィーは、次のような報告を書き送っている。アカデミーの内覧会訪問に始まり、父親の制作に関する報告がつづられており、この一節はいかにミレイの画業が家族の生活の中心にあったか物語っている。本文中のジェームズ氏なる人物がモデルを務めた作品は、ウォルター・スコットの小説を題材とした《ラマーミュアの花嫁》であり、このジェームズ氏こそ、翌年エフィーの夫となるウィリアム・ジェームズであった。このようにして自宅でミレイを観察し、制作の進捗を逐一報告する娘たちがいる一方、幼い妹たちは、寄宿学校や祖父母宅から、制作状況について尋ねる具合であった。同年2月26日付の手紙で、末娘ソファイアは「土曜日にパパにお手紙を書きました。パパは今《チェリー・ライプ》の妹を描いているんだそうですね」と末尾に記している。今朝お返しするこちらの地図を貸してくださったあなたのご厚意に、父はとても[...]昨日は皆でオールドマスターの内覧会に訪れ、アカデミーの常連陣に会いました。[...]ジェームズ氏は、パパがレイヴンズウッドの顔を描いているため、[モデルとして]ここに滞在しており、たいへん素晴らしい顔立ちをしています。パパは自分の仕事にとても満足しており、それは大変重要なことです。(1878年1月6日、エフィー宛)Cooperが指摘するように、生涯未婚であった次女メアリーがやがてエフィーに代わってミレイの画業を支えたことを、現存する手紙が裏付けている。例えば、カリフォルニア大学所蔵のエディス・ヒプキンス書簡集には、メアリーから父親に代わってヒプキンス自身に宛てた次のような手紙がある。― 38 ―― 38 ―
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