響しあい、それぞれの調和は維持されるだけでなく強化されもする。そしてこうした展示空間は、少なくとも既存の美術館では起こり得ず、ギヨーム邸のように、美術作品の鑑賞を妨げない家具の選択と配置、そして適切な美術作品の壁への按配によって可能となるのである。3:邸宅でのコレクション展示と美術作品の相互作用をめぐってギヨームの邸宅美術館の秀逸さを仄めかす別の記事にも触れておこう。装飾美術振興に携わったR・マルクスの息子C・ロジェ=マルクスによる「コレクターの家」がそれである(注8)。1935年、ギヨーム死去の年の『アール・ヴィヴァン』に掲載されたこの記事は、架空のコレクターと思しき人物を話題の中心とする対話篇である。登場人物は無名の語り手、引っ越しを終えたばかりの美術コレクターのメグルフィス、装飾芸術家ブリゲット、そして美術愛好家プリュネルである。記事は、美術愛好家にとっての引っ越しを一種の「試練」とみなし、どれほど素晴らしい作品を所蔵していても、それらの全てを壁に飾ることも、「生活に溶け込ませたい品々」を倉庫に置きっぱなしにすることもできず、「妥協点」を探らざるをえない事態の先に、生活のなかの芸術の意味を探る内容となっている。まず、引っ越しを終えたばかりのメグルフィスの家を訪れた友人のブリゲットは、素晴らしい鏡や観葉植物があるにもかかわらず室内に飾られた絵画が多すぎると批判する。休息をもたらしうる邸宅であるべきだが、メグルフィスの家は息が詰まる状態であり、「芸術がついには生活をだめにしてしまう」からである。ブリゲットは飾られた絵の四分の三は取り除くべきと指摘し、「壁面ごとに一枚のタブローで十分なのだ。わたしは芸術に関していえば一夫一妻制なのだ。後宮が騒がしすぎる」と不満を連ねる。ブリゲットの立場は、作品同士の間隔を確保し一点一点鑑賞することを良しとする鑑賞に近く、1930年代のルーブルの展示や1930年代に改装されたジュ・ド・ポームの展示を意識した発言とも解釈できる〔図9、10〕。室内に飾られた作品の過剰さを指摘するブリゲットに対し、もうひとりの訪問者プリュネルは作品の少なさを批判する愛好家として登場する。蒐集した作品のすべてを飾ると詰め込み過ぎになってしまうことを危惧するメグルフィスに対し、プリュネルは「すばらしい作品はどれもよい関係性にある。けっして互いに嫉妬し合うことはない、なぜならそれらは互いに邪魔になることはないからだ。集められた作品をじっと見れば見るほど、一つの作品が備える芸術の温度がさらに高まるのである」と助言する。プリュネルは複数の絵画が相互に影響を与えるような集合的作品展示の利点を説き、個別的作品展示を重視― 504 ―― 504 ―
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