を損なうことのない家具や調度品によって首尾よく、また「秩序」ある形で作品が取り囲まれているからこそ批評家らの関心を呼んだのである。4:公的美術館の時代における私的コレクションとコレクター公的美術館における作品ごとの空間を確保した個別的展示が進むにつれ、ギヨーム邸が備えるような、作品同士や作品と調度品や家具が織りなす「秩序」といった特徴は私的コレクションと邸宅展示の特異な点としてより際立ってくる。1939年の『アール・ヴィヴァン』に掲載されたヴァルデマール・ジョルジュ(以下W・Gと記す)の「コレクションとコレクター」は、大衆教化を目的とした「公のギャラリー」や「美術館」と対照的な空間としてコレクターの室内に着目し、「私的コレクション」が備える魅力や役割について論じている(注9)。W・Gによれば、美術館は芸術と生を分離し大衆を教化することを目的とした「模範的監獄」といえるが、芸術は本来、より「親しみのあるfamiliers」信仰や宗教であり、「国家への信仰」といった公的な目的と合致することはない。そして美術館は芸術と生との間に仕切りを設けてしまうため、「生を賛美したり、組織したり、安定させる」ことはできない。では、コレクターらは芸術の「親しみのある」性質をどのように享受しているのか。W・Gはパリに居を構えるコレクターらを取り上げ、そのコレクションや室内装飾などを紹介するが、ここで重要なのは、コレクションの中身そのものよりも、コレクションが配された空間や室内に関心を向けつつこの記事が執筆されていることである。当然、『アール・ヴィヴァン』という雑誌が装飾芸術を一つの重要な主題とし、装飾芸術を扱う店舗が毎号広告を出していることなどを勘案すれば、W・Gの関心の所在は不思議ではないかもしれない。しかし、各邸宅に飾られた作品が室内の装飾や雰囲気との調和や関係性のなかで新たな魅力を放っていること、そしてコレクターらの思索的生活に少なからぬ影響を及ぼしていることに言及しつつ、「芸術と生」との関係性へと肉薄している点には留意すべきだろう。たとえば、F・フェネオンの邸宅はコレクションが壁に沿って一定間隔で飾られているだけでなく、「ピサロやAの・マルケ、E・ヴュイヤールを想起させる素晴らしい通りの眺めが広がる」と評価し、邸宅の窓から見える眺望がコレクションの素晴らしさを際立たせていると指摘する。また邸宅の内装と作品との相互関係という点からいえば、E・ルアールの邸宅もその一つである。マネやベルト・モリゾらの作品に囲まれた室内には「美術館らしいものはまったくない。古くからの家具が置かれているのがわかるが、それらはまったく気取らず洗練さを感じる仕方で設置されている。内― 506 ―― 506 ―
元のページ ../index.html#519