鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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部は明るく、親密だ。そこでは、ほんの僅かの細部にさえも、生命の存在を感知することができる」。美術館の壁や窓、その空間とは大きく異なるようなルアールの邸宅は、古い家具の配置により光は確保され、「生命」の存在を感知できるほど生との関係は「親密」とされる。もちろん、邸宅のほとんどはミュゼオロジー的な関心から建てられたわけではない以上、明るい室内というのは稀な事例だろう。じっさい、A・ペルランの邸宅は「暗い建物の豪奢な雰囲気」ゆえに、そこにはセザンヌの傑作が置かれるよりもF・ロワペ、L・ボナ、E・メソニエのほうが適していたかもしれない。しかし続けてW・Gは、1936年にオランジュリー美術館で開催されたセザンヌ展を念頭に置きながら次のようにペルラン邸を評価している。「しかし、この芸術[セザンヌの作品]はそこで光り輝いていた。日常生活のなかに統合され溶け込み、より魔術的で雄弁で説得的な仕方で振動していたのだ。チュイルリー公園のオランジュリーの光り輝くガラス室の下よりもずっと完全な仕方で、この芸術はその内奥を開示していたのだ」。オレンジを生育させるための温室を改装したオランジュリー美術館は天窓から降り注ぐ光が人工照明の代わりとなり、明るい展示空間を形成していたことで知られる。W・Gはこうしたミュゼオロジー的な利点を別の評価軸、すなわち生活空間へと芸術作品が溶け込むことの利点をもって相対化し、セザンヌ作品が放ちうる別の輝きを示す。このW・Gの視点には、近代的な美術館の整備や展示の近代化がもたらす鑑賞とは異なり、邸宅に飾られ生活の中で光り輝く作品を享受する私的コレクションのあり方が示唆されている。ではそこでの作品享受とは単なる鑑賞の謂であろうか。そうではなく、むしろそれはコレクターが邸宅内にて作品に囲まれつつ思索をし、時をともにする営為に他ならない。例えばP・ジャモの邸宅にはプッサン、ドラクロワ、ルノワールをはじめゴーギャン、フランスのプリミティフ派など様々な様式が蒐集されているが、これらの絵画は訪問者への自慢のためあるいは教化のために飾られているのではない。むしろそれらの絵はコレクターがこれらの作品に取り囲まれ精神的あるいは思索的活動を行うための場を形成している。つまり、「ジャモ氏は、自らの心の許せる友であり自らの深い考えの立会人たる作品に囲まれながら執筆し、生活を送っていたのだ。彼は作品を眺め、作品に相談し、座右の書のごとく作品を扱っていたのだ」。M・カプフェレについても、「ルノワールのブロンド色の風景画やルドンによる仏陀像の前で読書し考えを巡らせることを好んでいる」と紹介され、夫ポールの没後にコレクションを引き継いだギヨーム夫人も、「私が何度となく目撃したのは、ポール・ギヨーム夫人が彼女の見事な「現代絵画ギャラリー」を織りなす作品の前で夢想したり雑談したりす― 507 ―― 507 ―

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