鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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る姿であった」と紹介される。畢竟、美術作品は生活から遊離した環境で鑑賞される対象ではなく、生活のなかでコレクターと対峙し、その者の思索を促し、精神的な生を営む環境の一要因として語られているのだ。翻って考えれば、W・Gにとって美術館が欠いていたのは、美術作品を前にした「孤独な散歩者」らの楽しみであり、愛好家らが美術品を前にした「愉悦」にほかならない。万人に開かれた教育機関として機能する公的な展示施設とは異なり、私的な領域の展示空間はその閉鎖性によって芸術と生との親密な繋がりを保持し続ける。W・Gが示すこうした見方は、一部の限られたブルジョワ層の趣味を肯定する貴族主義的な立場であり、30年代以降ファシズム寄りの信条を示す彼の政治的ポジションをそこに重ね合わせることも可能かもしれない。しかし、私的なコレクションが有する魅力とその展示をめぐる分析は、本論で見てきたように彼一人に限られたわけではない。そうであるならば、むしろ私邸におけるコレクションの展示や生活のなかの芸術という関心が、公的美術館の開館やミュゼオロジーの進展と比例するように高まっていったことは十分に考えられる。じっさい、W・Gは先の記事のなかで私的コレクションと公的展示施設とを対比的に論じるが、後者の教育的側面に加え、その学問的側面とその具体例としてミュゼオグラフィーについて言及している。「美術館、この完璧なゲットーは、金箔を張った牢獄なのだ。一つの新しい学問であるミュゼオグラフィーは、床の内装、額縁、タブローと素描の壁への掛け方、展示室とギャラリーの熱水、室温、昼夜の照明、を探求する(注10)」。しかし、W・Gや他の批評家らの眼にとって、新たな展示施設で鑑賞される作品はコレクターらの邸宅にて鑑賞される芸術経験とは決定的に異なるものであった。ギヨームの邸の調和を評価したテリアドやピーラル、集合的展示がもたらす絵画相互の肯定的影響を主張したロジェ=マルクス、そしてコレクターの室内が特権的に有する魅力ついて言及したW・Gらは、公的な美術館の設置やミュゼオロジーの発展とともに消えつつあるコレクターに、生活の中で有していた芸術のあり方や機能、さらには作品相互の影響関係、作品と家具・調度品との調和関係の可能性を探っていたのである。5:まとめにかえてこれまでのギヨームの邸宅美術館やコレクターをめぐる議論を踏まえるならば、W・Gが1939年の『アール・ヴィヴァン』に寄稿した「ある政治家のコレクション」は重要な資料といえる(注11)。というのも彼がそこで取り上げているコレクターは、P・ギヨームの顧客の一人であり、公私に渡って交流のあった政治家A・サローだか― 508 ―― 508 ―

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