負った(注6)。2.ボーデと西洋美術作品の展示ボーデが存命中に上梓した自伝では、生涯にわたる美術品収集や美術館運営に関する記録と回想がなされた。それらを回顧する『美術館の仕事50年(■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■)』(1922)では、ボーデと周辺人物との関わり、現在もなおベルリンを代表する著名な作品の獲得経緯などが、ボーデ自身の視点から語られる(注7)。ここで着目したいのは、1904年にベルリンの博物館島に開館したカイザー・フリードリヒ美術館(Kaiser-Friedrich-Museum、現在のボーデ美術館)の設立準備にあたり、のちの総館長として大きく貢献したボーデは、特異な外観を呈する西洋美術の展示方法を考案していた点である。例えばルネサンスの彫刻や絵画のための展示室には「その時代の調度品をともなった独特の展示」(注8)がなされた。つまり、それら展示物はいわゆる近代的なホワイト・キューブの空間に配置されるのではなく、展示物と同時代、あるいは全く異なる時代・地域の絨毯や壁紙、家具といった調度品をあしらい、まるで収集家の邸宅を再現するかのように設えられたという〔図1〕(注9)。1830年に開館した、ベルリン最初の博物館施設である王立博物館(Königliches Museum、現在の旧博物館)は当初、ボーデ美術館と同様に近世以降の西洋美術作品を主として展示していた。展示室は年代順に並べられ、1階には彫刻、2階には絵画がそれぞれ配されたが、当時の展示方法とボーデの展示方法は大きく異なる。まず先述したような、展示物を調度品、工芸品で装飾し室内全体をバランスよく彩るといった試みは王立博物館ではなされていない。むしろ、博物館の建築家カール・フリードリヒ・シンケル(Karl Friedrich Schinkel, 1781-1841)は館内の装飾を最小限にとどめ、絵画の効果を重んじることを訴えていた(注10)。さらに作品の展示順序に関していえば、王立博物館ではイタリア・ルネサンスを中心とした、明確な美術のヒエラルキーを来館者に体感させる配置がなされていた。例えば、当時高い評価を受けていたルネサンスの画家コレッジオの《レダ》(1530-31)は館内の最奥部、北側中央に位置する展示室の中心に展示された。反対に、当時高位のヒエラルキーに属さないとされた展示物、すなわち中世美術などは大きな広間に属する小展示室に配される。一方で、ボーデのカイザー・フリードリヒ美術館は、王立博物館において「美的でない」とされたドイツの彫刻さえも、「新しいドイツの美術館に独立した広間を持ち、それは古い家具、ドイツの壁を飾るタピスリー、同時代の幾らかの絵画によって、最もふさわしく、威厳のある調度が維持された」という(注― 515 ―― 515 ―
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