11)。それには当時の収集家らとの交友による工芸品への関心と、自国の歴史への意識の高まりを見出せるだろう。3.工芸博物館、民族学博物館とボーデとの差異先述したように、ボーデ以前から日本をはじめとする非西洋地域の工芸、美術作品はベルリンで展示と収集が行われていた(注12)。工芸博物館は、その前身となるドイツ産業博物館(Deutsches Gewerbe-Museum zu Berlin)がすでに1867年の時点で組織として成立していたが、長らく専用の建築を持つことはなく、既存の建築を間借りする形で工芸製品の展示・保存の活動を行っていた(注13)。やがて博物館専用の建築を建設する機運が高まり、新たな建築がマルティン・グロピウス(Martin Gropius, 1824-80)とハイノ・シュミーデン(Heino Schmieden, 1835-1913)によって設計され、初代館長ユリウス・レッシング(Julius Lessing, 1843-1908)のもと1881年にベルリン工芸博物館(Kunstgewerbemuseum zu Berlin)として開館する(注14)。工芸博物館は、1873年に創設され1886年に隣接する区域に開館した民族学博物館(Königliches Museum für Völkerkunde)(注15)とともに、西洋美術の範疇にとどまらない作品(注16)を展示したほか、館内に工芸学校の教育施設やアトリエ等の設備も収容するものであった(注17)。工芸博物館と民族学博物館は、展示物に関してはボーデと関心を共にしていたものの、ムントや池田が論じているように、その展示意図はボーデとは大いに異なる(注18)。ボーデは『わが生涯』において、工芸博物館の開館時にその建築自体を以下のように評している。グロピウスとシュミーデンの作品である新たな建築は、それが収容する芸術作品のことをほとんど考慮に入れないまま建築が建てられており、また、配列も調度も特別の芸術的な味わい(Genuß)を示さなかったため、[人々を]喜ばせえないものだった(注19)。同様に、民族学博物館の開館にあたっても以下のように述べている。われわれが公には褒め称えなければならなかったその建物は、たいていが趣味に欠ける(geschmacklos)と同時に目的に即していないという結果に終わる、あの時期の平凡な「実用建築」の一例である(注20)。― 516 ―― 516 ―
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