注⑴ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 150■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■⑵ Wilhelm von Bode, ■■■■■■■■■■, Thomas W. Gaehtgens und Barbara Paul (Hrsg.), Bd. 1■■■■■■■■■■■■■■■■, Staatliche Museen zu Berlin (Hrsg.), 1996.(Textband), Bd. 2(Kommentarband), Berlin: Nicolaische Verlagsbuchhandlung, 1997.⑶ Barbara Mundt, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■め括られた。学校によってわれわれの時代の芸術的な能力を生活の中に持ち込み、最も内面のところでわれわれ民族の過去の数百年の芸術と手工業における精神的な紐帯をふたたびつなぐ。そしてこのつながりから、祖国の幸福と繁栄のため、われわれの日常的な仕事に、新しい時代の高貴な花々が萌え出ますよう!(注25)ここでは、工芸博物館がドイツ国民の工芸作品の制作や工芸史上の成果に資することを期待されている。世界の工芸史のうちに西洋やドイツの工芸を位置づけた先述の装飾モザイクやフリーズも、こうした価値観の反映であるといえるだろう。一方で民族学博物館も、美的なもののためというよりは民族学や歴史学の研究成果を展示し、教育することを目的としていた。1906年の民族学博物館を収めた写真資料〔図4〕では、玄関付近の円形の広間に仏像や彫刻、梵鐘が敷き詰められており、空間と展示物の不均衡が目立ち、また、その展示室の丸天井には、ギリシャ神話の神々が表された装飾画が目立っており、建築がボーデの述べた「目的に即していない」様子を示している。このような展示を実見した際にボーデが先の引用のように嘆息したことが推測される。おわりにボーデはイスラーム圏の絨毯などを西洋美術の彫刻や絵画を配する展示室の装飾に用いたり、邸宅の室内を思わせる配置にしたりと、非西洋の造形物を時に歴史的文脈から引き離し、美的な要素を重視した展示を行った〔図5〕。これらは、世界の工芸を制作や生産の助けとなるよう収集展示した工芸博物館や、歴史研究の成果を人々に示すため展示した王立美術館や民族学博物館、すなわち展示物を歴史的文脈に位置づけることでその体系を示す博物館とはまた異なる物質観のもとに成立していたといえる。― 518 ―― 518 ―
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