鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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⑻ Ebd., S. 52.⑼ 池田、2020年、144頁。⑽ 旧博物館の展示方法に関しては以下の拙稿を参照。三井麻央「フリードリヒ・シンケルの建築と美術史─ベルリン旧博物館における絵画の展示をめぐって─」『ヨーロッパ言語文化研究』第37巻、2018年、21-35頁。⑾ Ebd., S. 58, 59.⑿ 南明日香『国境を越えた日本美術史 ジャポニスムからジャポノロジーへの交流誌1880-1920』⒂ ベルリンの民族学コレクションは、まず1856年以降、博物館島の新博物館(Neues Museum)で展示されたのち1873年から1886年に工芸博物館の近隣に建設された新たな建築に展示場所を得たものの、建物は戦災により破壊された。戦後はダーレム地区で1949年に初めての展覧会が行われ、戦災を被った博物館の建物は1961年に取り壊された。1964年から73年にかけてダーレム地区に建設された建物にコレクションは移転し、2017年まで展示を続けた。⒃ ベルリンのアジア美術コレクションは、ベルリン宮殿内に元々存在していたクンストカンマーでの展示ののち、1856年以降民族学的なコレクションは新博物館で、美術コレクションは1886年以降民族学博物館や工芸博物館で展示されていた。1904年にイスラームおよびインドの美術、1906年に東アジア美術の部門が独立して創設され、それらはボーデが総館長を務めるカイザー・フリードリヒ美術館で展示された。東アジア美術部門の館長はオットー・キュンメル■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, Köln, Weimer, Berlin: Böhlau Verlag, 2018; Klaus Brisch, "Wilhelm von Bode und sein Verhältnis zur islamischen und ostasiatischen Kunst", in: Staatliche Museen zu Berlin (Hrsg.) 1996, S. 33-48.⑷ 安松みゆき『ナチス・ドイツと〈帝国〉日本美術』吉川弘文館、2016年。⑸ 池田祐子「ベルリン工芸博物館と日本─東アジア美術館設立をめぐって」『立命館言語文化研究』31巻4号、2020年、137-149頁。その他、以下も参照した。池田祐子「ドイツの工芸博物館について:その成立と展開─ベルリンを中心に」『近代工芸運動とデザイン史』デザイン史フォーラム編、思文閣出版、2008年、133-146頁、池田祐子「グロピウス: 芸術と産業をめぐる華麗なる一族─ディオラマ、工芸博物館、そしてバウハウス」『ベルリン─砂上のメトロポール(西洋近代の都市と芸術5)』尾関幸編、竹林舎、2015年、187-211頁。⑹ また、展示行為と西洋の物質観の関係性を考察するにあたり以下を参照した。鐸木道剛「見え⑺ Wilhelm von Bode, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, Bielefeld und Leipzig: Verlag von Velhagen & Klasing, 1922.⒀ 工芸博物館の建築が披露された際に刊行された以下の資料からは、当時の館内設備や構成員に関する詳細を辿ることができる。Kunstgewerbemuseum zu Berlin (Hrsg.): ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, Reprint mit einem Nachwort von Manfred Klinkott, Berlin: Frölich & Kaufmann, 1881.⒁ そののちベルリンの工芸コレクションは1921年にベルリン宮殿博物館(Schlossmuseum Berlin)へ移転し、第二次大戦を経て1963年、東ベルリンではケーぺニック城に展示室が設けられた。一方、西ベルリンではシャルロッテンブルク城での展示ののち、1985年にミッテ地区の文化フォーラム内に現在の建物が開館した。グロピウスらによる建物は現在展示施設(グロピウス・バウ)として用いられている。ない展示、見せない展示」『岡山大学文学部プロジェクト研究報告書23』2016年、29-40頁。藤原書店、33-38頁。― 519 ―― 519 ―

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