③ 増上寺所蔵五百羅漢図における僧俗文化の多重性研 究 者:フリーランス 白 木 菜保子東京・増上寺所蔵「五百羅漢図」は、幕末の嘉永7~文久3年(1854~63)に描かれた極彩色の仏画で、2幅に10人の羅漢を配し、総勢500人の羅漢を表した大作である。全100幅の中に西洋的な陰影や遠近法が取り入れられ、その効果は現在の鑑賞者にも強い印象を残す。全体の構想は、増上寺の学僧・大雲(1817~76)によるもので、僧伽集団(教団)の規律である戒律に基づき、袈裟の着用や器物を随所に描かせている。大雲は、増上寺で研鑽を積んだ同学・養鸕徹定(1814~91)らとともに、本作を描いた絵師・逸見(狩野)一信(1816~63)に仏教の知識を伝授した。それにより本作には釈迦回帰を目指した学僧の思想が反映され、従来の羅漢図に描かれた中国的な要素を排除することが留意された。近年、近世後期~近代の絵画研究において、本作を広い視座から美術史上に位置づける論考が相次いでいる。幕末には釈迦(あるいは羅漢)の正統な思想や図像が熱望され、古代の羅漢図賛や上代仏教美術が根拠とされた結果、徹定『羅漢図讃集』や本作を含む仏画の制作が行われた。近世における羅漢図の受容と再生産をめぐる事象は、独自の国際性と位置づけられている(注1)。一方、明治初期の宝物調査では、徹定による評価が引き継がれたが、次第にその関心は仏教の文脈から離れたことが明らかにされた(注2)。本研究は上記のような広い視座に比し、ローカルで起きた現象に迫るものである。正統な思想を背景にもつ本作は、一方で当時の民間信仰や視覚文化に取材した描写も多く含む(注3)。学僧の思想が反映された絵画には、釈迦在世の当地インドが描かれたと想定されるが、その志向が世俗の人々も魅了する絵画を誕生させたのではない。学僧は公開に際し、本作を戒律(梵土の古儀)をふまえた「新図」と主張したが、学僧と一信それぞれの立場に応じて意味内容を異にするとの指摘がある(注4)。江戸後期における文化動向を確認すると、『集古十種』の編纂以降、絵画制作の周辺では考証が盛んに行われ、文政・天保期(1818~44年)には社会階層を問わず共有された(注5)。本作における学僧および仏絵師・中西誠応(?~嘉永頃か)から一信への知識の伝授は、考証家から絵師への情報の共有と同じ構造であろう。本稿では一信が接した仏教以外の考証について確認し、本作において僧と俗の文化が並存・複合した理由を考察する。なお、紙数の関係により、今回は学僧の考証について述べる― 523 ―― 523 ―
元のページ ../index.html#536