余裕がないが、これについては別にコラムを執筆した(注6)。1.修行期の居住地・薬研堀周辺における一信の学習1-1.修行期の場所と年代一信が考証に接しえた背景を考える上で、他の絵師との交流は注目すべき点だが、断片的な記録しかないため検証は難しい。一方、一信作品が示す諸派兼学については、作品分析による各流派や浮世絵との関連が指摘されている(注7)。修行期の環境を考える手がかりとして、まず史料から具体的な地名の抽出を試みた。居住地は伝記によって異同もあるが、浅草鳥越町の某宅に身を寄せた他、両国米沢町・両国横山町・浅草茅町・福井町に転居しており、いずれも薬研堀(現・東京都中央区東日本橋2丁目付近)に近い場所である〔図1〕。安政2年(1855)10月2日、一信は大地震で被災し、2日後に薬研堀を含む浅草周辺を見舞ってもいる(注8)。同年8月に書かれた款記(逸見家伝来資料)には「東都芝之住」の書入れがあることから、当時は芝に居住していた(注9)。翌年3月、法橋に叙任されたことをもって修行期を終え、法橋期の幕開けとなる。つまり、芝に住む以前は薬研堀周辺に地縁をもっていたと推定でき、明治期に書かれた「薬研掘の住狩野直信の幼名を受け、始めて一信と号す」という記事(注10)の信憑性が高まる。よって、本稿では一信が修行期を過ごした地を薬研堀周辺、元服して一信を名乗ったと想定し、修行期を一信14歳となる天保元年(1829)頃~法橋叙任の安政3年までとする。1-2.修行期の学習について当時の薬研堀の状況については複数の先行研究があり、谷文晁(1763~1840)以降、諸派兼学を体現した文晁一門や沖一峨(1797~1855)等が集ったことで知られる。寛政6年(1794)、谷中門外の感応寺で行われた古書画展観会以降、書画の集まりは盛り上がりを見せたが、下って天保年間には薬研堀に近い料亭へ場所を移し、公開の書画揮毫即売会として一般化した(注11)。とりわけ書画だけでなく、詩歌・俳諧等を取り混ぜた会への参加には、文芸の素養も必須とされ、佐竹永海(1803~74)や岡本秋暉(1807~62)等の顔ぶれが確認されている(注12)。一信と同年生まれの鈴木鵞湖(1816~70)は嘉永2年(1849)、34歳で書画会の幹会(幹事のような役割)をつとめた(注13)。一方、一信の名は嘉永2~安政4年(1857)までの書画会の案内チラシを収めた『雪江先生貼雑』(国立公文書館蔵)に見出せない。逸見一信として初めて人名録に載― 524 ―― 524 ―
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