るのは安政4年、成田山の仕事を終えた頃である(注14)。また、一信が絵画以外の教養を育む環境に恵まれたかについては、現段階で資料がなく、書画会での揮毫は行われなかったと思われる。むしろ、先達の絵画や理論を積極的に習得したのだろう。一例として本作第3幅の欠伸をする若年の人物は、欠伸布袋図との類似が指摘されているが(注15)、彦根藩世田谷領代官の大場家が所蔵した絵画資料にも同じ体勢をとる文晁原本の模写「楊貴妃欠伸図」がある〔図2、3〕。背景は反転し、柱と家具が示すL字構図や、台上の花瓶等の類似を指摘できる。一信が文晁門下であったとは伝えられないが、始めに狩野派を学んだ沖一峨のように文晁門下や周辺人物と積極的に関わり、諸派兼学の理論を受容して多様な画風を駆使した事例(注16)は、一信の学習を考える上で有効である。天保期以降、文化交流の中心地であった薬研堀に憧れた修行期の一信が、付近に住処を定め、学習を重ねていたと考えたい。他に、天保期以降の薬研堀では、①一峨や永海の移住、②鉄翁祖門に絵を学んだ鑑定家・安西雲煙(1807~52)の画論『鑑禅画適』(嘉永4年成立)にみられる諸派兼学の思想、③佐藤一斎・安積艮斎の着賛がある永海・鵞湖合作「三聖図」(安政5年(1858)・個人蔵)等がみられる。②雲煙の画論は楊維楨『図絵宝鑑』等、複数の中国画論を引用し、河野元昭氏が提唱された典拠主義に相当する。修行期の一信には典拠主義を認められないが、河合正朝氏が報告された「落款を写した布切れ」の存在は看過できない。一信が当代の巨匠に強い憧れを抱いたことを示すものであろう(注17)。2.梵土の羅漢図理解から新奇の画法による羅漢図へ2-1.中西誠応の目を通した古代の羅漢図理解本作における隈取の濃い面貌表現は、幕末狩野派様式を確立した狩野栄信との共通性が控えめながら指摘される(注18)。本作の描線には狩野派を学んだ跡が見られ、また円山派風の流し目で描かれた「西王母図」(個人蔵)にも円山派の柔らかい筆線ではなく、狩野派らしい線が用いられる。一信が狩野を名乗ったかについて議論があるが(注19)、自称したかはともかく、筆者は一信が狩野派の絵師として本作に臨んだと考える。既出の一信作品を図版で概観したところ、意外にも面貌に濃い隈取を施す作例は少なく、大英博物館所蔵「趙雲図」を挙げる程度である。本作には面貌以外にも、羅漢の手足や体躯に至るまで墨線に沿って濃い隈取が施され、戒律を護持することで痩せた肉体が表現される〔図4〕。羅漢図において腕に影が施される事例は、陰影法を駆― 525 ―― 525 ―
元のページ ../index.html#538