鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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使した汪雲従「降龍尊者図」(清時代・個人蔵)がある。これに比して本作の隈取は、陰影法を十分に咀嚼しきれていないが、結果的には西洋的な陰影に近づいている。しかし当初は、梵土の羅漢図と理解された称名寺所蔵十六羅漢図(以下、称名寺本)に倣うものであっただろう。嘉永4年(1851)以降の徹定自筆と思しき『十六羅漢図賛輯録』写本(佛教大学図書館蔵)には、中西誠応による着色の称名寺本の写し(縮写)が収められている(注20)。本格的な絵ではないが、注目すべきは、羅漢の皮膚の線に沿って薄墨の隈取が施されることである〔図5〕。一信が称名寺本を実見した記録はないため、誠応の写しを通して称名寺本を認識したと思われる。浮いた骨格を示す隈取とともに、禅月羅漢の特徴である不自然な肩の盛り上がりや皴の多さは、徹定が禅月大師真蹟と断定した梵土の羅漢図の特徴と理解された。一信は、さらに自身が模写した羅漢図の先例もふまえ、個々の羅漢を描いたと考えられる。一信が誠応の図の正統性を受け入れたと考える根拠は、『画像須知』における誠応自身の言葉である。中古以来ノ像ニ、衣相ヲ誤レルガ多シ。殊ニ近世ニ至リテハ、其ノ誤リヲ知ラズシテ写シ伝タヘ、或ハ筆者ノ胸臆ニ任セテ、妄みだりニ作意シタルモ多カルナレバ、今マ世間ニアラユル新図ニ、衣相ノ法ニ合かなヒタルハ希まれ々まれニゾ覚ユル。是レ衣相ニ古今ノ違ヒアル事ヲ弁ヘタル人少ナキ故ナリ。誠応カ子ねテヨリ、此ノ誤リヲ免レン事ヲコヒ子ねガフニ因テ、時々律家密宗ノ諸大徳ニ問ヒ、古画ヲ写シ、新図ヲ製つくラントスル時ニ臨ミ、事ニ当リテ、疑ヒヲ闕のぞキ危フキヲ糺ただシテ、粗ほぼソノ正儀ヲ明ラムル事ヲ得タリ。中西誠応撰述『画像須知』〔弘化五年(1848/嘉永に改元)序〕より抜粋誠応は、中世以来の仏画に誤った衣相を写し伝えている例が多いことに気づいたため、その誤りを糺そうとし、律や密教に詳しい僧侶に正儀を尋ねたという。その結果、撰述されたのが『画像須知』である。序文(注21)によれば、誠応は文政年間(1818~30)、京都で顕道敬光『十八物図』の挿図を担当した。その際、戒律に詳しい僧侶から袈裟の製法や着用法についての指導を受けていたという。徹定が『十六羅漢図賛輯録』から『羅漢図讃集』への編纂過程(注22)で、誠応に称名寺本の縮写を依頼したのは、誠応が古代の梵儀に親しんでいたからに他ならない。本作の制作に際して『画像須知』『十八物図』を参照し、絵画に袈裟や器物を描き込んだ一信も、誠応の図― 526 ―― 526 ―

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