鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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に厚い信頼を置き、素直に受け入れたと思われる。しかし、人体の隈取が最も丁寧に描かれる本作第11~20幅の中で、特に第15幅では、羅漢の蟀こめ谷かみに浮き出た血管や皴が表現されていることに着目したい。羅漢が熱弁をふるう様子を迫真的に伝える面貌表現は、明らかに誠応が施した隈取と異なる性質のものである。2-2.迫真性の追求梵土の羅漢図から迫真的な羅漢図への変化のきっかけは、嘉永7年(1854)頃、一信が仏師・松本良山(1801~72)の依頼に応じ、羅漢の顔や手をあらゆる方向から描いたことに求められる。この成果は『成田山彫物下画五百羅漢尊御首下図』として新勝寺に伝わっており、本堂(現在の釈迦堂)外壁に嵌め込まれた「木彫五百羅漢像」の制作に際して参考とされた。『御首下図』は、あたかも森島中良『紅毛雑話』巻4に収録された西洋画の描法指南の様相を呈す〔図6〕。『紅毛雑話』の指南図がライレッセ『大絵画本』の引用であることはよく知られているが、この出来事により、一信は三次元的な人体把握を意識することとなった。その感覚を維持し、二次元に還元しようとした結果、人体に濃い隈取を施し、蟀谷の血管の表現にもつながったと考えられる。梵土の羅漢を描く意識から肉体に付された濃い隈取には、当然、歌川国芳(1798~1861)等が用いた異国・異形を示す意味もあっただろう。しかし、当初、隈取に意味づけられていた古代・異国・異形といった意味内容は踏襲される一方、立体的な把握を平面上に写し取ろうと奮闘した結果、隈取は海外から齎されていた陰影法を思わせる新奇さに近づいていったのではないだろうか。2-3.翻訳された医書と一信筆「五百羅漢図」では、立体的把握の所産となった隈取(陰影)への関心は、仏師の要請以外にも要因があったのだろうか。先に、本作における人体表現の特異性を洗い出すため、一信が私淑した永海による肖像画と比較を行う(注23)。画題の違いはあるが、渡辺崋山等による文人思想が強い肖像画を除き、江戸後期における迫真性という観点から比較作例を選定した。永海筆「井伊直亮画像」(彦根・清凉寺蔵)は、年を重ねた像主の強い意志が表れた本格的な肖像画である〔図7〕。体の描写は形式的で、手が衣服に隠れる。細部を観察すると面貌にはごく淡い墨で隈取が施され、眉は丁寧に毛描きされる。睫毛は描― 527 ―― 527 ―

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