かれず、黒目には薄い胡粉で点が打たれ、光の反射が示される〔図8〕。試みに本作第6幅の羅漢と比較すると、羅漢の鼻は大きく頭の形はいびつに描かれるため、異形さが際立つ。瞳には光の表現がなく、睫毛が細かく描かれる〔図9〕。永海が肖像画で採用しなかった睫毛の描写は注目される。次に、修行期における一信の外来文化への関心を確認すると、修行期の画帖「和漢和蘭陀美術写集」(弘化3年(1846)以降・増上寺蔵)に森島中良『万国神話』の写しや、マクリの骸骨図がある(注24)。「解体約図」と付記された骸骨の原図は、実際には宇田川榛斎『医範提綱内象』の付図として文化5年(1808)に出版された銅版画である。この情報の混同は、一信が複数の医書を閲覧する機会を得ていたことを示すのではないだろうか。安永2、3年(1773~74)の『解体約図』『解体新書』刊行以降、寛政元年(1789)の『万国神話』など海外の情報を含む著作の刊行を須原屋市兵衛が引き受けたことはよく知られている。一方、一信初期の北海道留萌・礼受厳島神社への奉納絵馬「頼朝千羽鶴放生会図」は、礼受厳島神社を開創し、代々その名を襲名した商人・栖す原わら角兵衛の注文によると考えられる(注25)。角兵衛は紀州栖原村を出自とする商人で、留萌を含む北海道各地の場所請負を担った。さらに、同郷出身で日本橋等に店を構えた書肆・須原屋一門、および深川で干鰯問屋を商った栖原三九郎と姻戚関係を結び、互いに資金援助を行った(注26)。翻って、本作の人体描写と須原屋の刊行物との関連を求めると、『解体新書』や杉田立卿訳述『和蘭眼科新書』(文化13年(1816))の挿図が参照されたのであろう。『解体新書』における口蓋(上顎の内側)・歯・舌等、個別の器官の図解は、仏師の要請によって感化された絵師に「あるにも関わらず描かれてこなかったもの」を強く意識させたと考えられる〔図10〕。本作では口の中の描写が多く、先例では文政11年(1828)頃、国芳が取り入れているが、口蓋は描かれない〔図11、12〕。また、『和蘭眼科新書』の挿図に示された睫毛の描写は、睫毛が描かれない新勝寺十六羅漢図以降、導入が検討されたと考えられる〔図13、14〕。すなわち、睫毛や口蓋が迫真性を意識した一信の考証であったとは言い難いが、医書の閲覧によって示しえた特徴と言える。3.おわりに一信の修行期における環境と、考証文化との接点について考察した。文化交流の中心地、薬研堀で修行期を過ごした一信は、弘化3年頃から異文化への関心を抱いた。― 528 ―― 528 ―
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