注⑴ 上嶋悟史「近世における羅漢図の受容と再生産」宮治昭・肥田路美・板倉聖哲編『アジア仏教⑷ 梅沢恵「増上寺所蔵一信筆五百羅漢図における図像の継承と「新様」」、矢島新編『近世の宗教美術─領域の拡大と新たな価値観の模索〈仏教美術論集7〉』竹林舎、2015年3月、p. 208~210⑼ 河合正朝「逸見家所蔵の絵画資料について」『港郷土資料館館報』3、港区教育委員会・港区⑿ 鈴木泉「佐竹永海小考─江戸における活動の一端について─」『福島県立博物館 調査報告⒂ 山下裕二氏による第3幅解説『五百羅漢 幕末の絵師狩野一信 増上寺秘蔵の仏画』江戸東京⑵ 中野慎之「天平様式観の形成」稲本泰生編『釈迦信仰と美術』思文閣出版、2023年8月⑶ 拙論「逸見(狩野)一信筆五百羅漢図における梵土表象の調査研究」『鹿島美術研究年報』34⑸ 中野慎之「前賢故実の史的位置」『MUSEUM』664、2016年10月他⑹ 白木執筆コラム「幕末の増上寺における羅漢信仰と一信筆「五百羅漢図」」『激動の時代 幕末⑺ 『國華』1437(特集 狩野一信)、國華社、2015年7月、安村敏信・山下裕二監修『狩野一信五百⑻ 安政2年10月4日の一信の日記に「(前略)朝源興ニて朝飯。拙浅草所々見舞。芝口ニて三ツ割二樽源興へ贈ル。小網町日本橋銀町亀井茅町蔵前八幡観音様本所北割下水両国薬研堀廻リ帰リ。(後略)」とある。髙橋利郎翻刻「一信日記」注⑺前掲書(國華社)⑽ 兼子伴雨『見ぬ世之友』12、東都掃墓会発行小冊誌、1901年⑾ ロバート・キャンベル「観照の流れ 書画会四席その二・江戸感応寺西園雅集」『文学』8⒀ 伊藤紫織「鈴木鵞湖について」『鈴木鵞湖 幕末に活躍した郷土の画家』千葉市美術館、2007⒁ 松嶋雅人『狩野一信』(日本の美術 五三四)、ぎょうせい、2010年11月、p. 19、下段12~16行⒃ 山下真由美「沖一峨における画風の多様性について─人的交流との関連から─」『美術史』嘉永6年前後、本作の準備期には誠応が写した梵土の羅漢図が念頭にあったが、嘉永7年頃、立体的な表現の要請に触発されて、西洋画法を強く意識した。また、絵画の注文主と考えられる栖原一族との関係を積極的に利用し、自ら医書を参照したことで真に迫る人体表現の具体的な解決策を得て、五百羅漢図に採用した。本作は、学僧が文献や図像から考証によって求めた仏教の理想像が示された一方、絵師の領分において最先端の海外情報も享受しえた文化の残滓を映し出している。目美術論集 東アジアⅦ(アジアの中の日本)』中央公論美術出版、2023年12月別冊、鹿島美術財団、2017年11月明治の絵師たち』サントリー美術館、2023年10月、p. 32~33羅漢図』小学館、2011年3月等立港郷土資料館、1985年12月p. 22、右段17~45行目(3)、岩波書店、1997年7月他書第31集 佐竹永海』福島県立博物館、1998年3月、p. 57年1月、p. 73、下段13~16行目博物館、2011年3月、p. 34164、美術史学会、2008年3月― 529 ―― 529 ―
元のページ ../index.html#542