④ 江戸時代中期の木挽町狩野家における画風の継承について─狩野如川周信を中心に─1 略歴研 究 者:板橋区立美術館 学芸員 印 田 由貴子はじめに木挽町狩野家は、江戸狩野派を牽引した絵師を多く輩出し、江戸時代後期には奥絵師4家の中で最も繫栄した。近年、木挽町狩野家の再評価が進んでいるが、3代当主周信、4代古信、5代玄信は現存作例や伝記が乏しいため、研究の基盤が確立されていない状況である。このような中、薄田大輔氏は「探幽を知る世代がいなくなった次に、探幽様式がどのように継承され変容したのかという、江戸狩野派研究では避けられない問題を内包する18世紀前期の研究が欠落している」と語っている(注1)。江戸画壇最大の流派である江戸狩野派を考えるためには、この時期の木挽町狩野家の研究も必要である。そこで本稿では、狩野如川周信(1660~1728)について取り上げたい。周信の評価は、木挽町狩野家当主の中でも低いが、前述のように現存作例が少ないために検証することすら困難となっている。本研究では、彼の事績と評価を改めて見直し、作品の特徴を考察する。周信の略歴については『東洋美術大観』およびそれに基づいてまとめた安村敏信氏の論考が詳しい(注2)。それらに則りながら、周信が江戸狩野派でどのような立場であったのか確認していく。周信は、万治3年(1660)に父の常信と安信の次女である母のもとに生まれた。初名を右近といい、中務卿法眼、如川、泰寓斎と号した。延宝6年(1678)、19歳で徳川家綱に御目見した。御医師平井省菴(法眼正興)の娘を娶り、元禄9年(1696)に古信が生まれる。正徳3年(1713)に常信が逝去し、跡目を継ぎ木挽町狩野家の当主となる。『有徳院殿御実紀附録』には、「養朴うせぬる後はその子如川周信を召て常にとひはからせ給ひしが。如川も世を早うしければ。」とあり(注3)、常信没後は徳川吉宗の絵画指南をしていたことがうかがえる。享保4年(1719)法眼に叙される。享保13年(1728)69歳で没す。記録類に乏しく、宝永6年(1709)50歳のときの内裏造営が年代の分かる早い事績となる。この年の内裏造営では、小御所西取付廊下之間に柳鷺、常御殿夜御殿中段に龍田、女院御所御幸間御床御違棚に伊勢物語、院御所秀宮御殿奥御物置に藤棚を描い― 534 ―― 534 ―
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