鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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た(注4)。このとき、最も重要な紫宸殿の賢聖障子を描いたのは常信であった。従来であれば紫宸殿を担当した常信が内裏造営の中心となるはずであるが、高齢であったためか、江戸で制作したものを京都に送った。一方、常信以外の狩野派一門の絵師たちは江戸から京都に派遣された。このとき、35歳であった中橋狩野家の永叔主信が中心的存在となり、鍜治橋狩野家の探信守政や駿河台狩野家の洞春、小田原狩野家の柳雪も主要な御殿を担当し、周信は脇役的な立場であった(注5)。翌年の宝永7年(1710)琉球人来朝の際には父常信とともに周信の絵も贈られた。朝岡興禎が著した『古画備考』には謝恩使の豊見城王子朝匡と、慶賀使の美里王子朝禎による書簡「琉球人書簡 嚮遂荊望、兼見真跡、奇絶妙画、生意尤精、吾輩観之、真有不耐賞嘆者也、多謝々々、走件仲之、十二月十七日 豊見城王子 呈 狩野恕川妙手」「同 曩得荊識幸甚、殊奇絶妙画紹美、使南國野人賞嘆而無止也、所貺皆以為珍寶、走使謝之、十二月十七日 美里王子 呈 狩野恕川妙手」が記されている(注6)。外交上の謝辞も含まれているだろうが、周信の作品は高く評価されている。正徳元年(1711)には、第8回朝鮮国王献上屏風の御用を拝命し、犬追物一双を描いた。常信は3双制作し、御用を宰領するいわゆる頭取(触頭)であったことが指摘されている。また、この年より贈朝屏風に初めて画料の基準が定められ、犬追物は最も画料の高い画題の1つであった(注7)。54歳の正徳3年(1713)常信逝去にともない跡目を継ぎ、同年に6代将軍家宣の御影制作を拝命した。この将軍画像を描いた絵師は頭取の立場であったことが指摘されている(注8)。そして法眼に叙された享保4年(1719)に第9回朝鮮国王献上屏風を3双描いた。前回の贈朝屏風では3双制作したのは常信だけであったが、今回は永叔主信や鍛冶橋狩野家の探船章信も3双描いている。この9回目から贈朝屏風に彩色を伴わない作品が初めて登場し、その筆者である周信と永叔主信はこの御用を統率指導した立場であった(注9)。加えて、周信は同年に7代将軍家継の御影制作も拝命している。以上のことから、周信は父・常信の逝去以降、江戸狩野派の頭取的立場として絵事に携わっていたことがうかがえる。周信はこれまでどのように評価されてきたのだろうか。先行研究でしばしば取り上げられるのが湯浅常山(1708~81)による『文会雑記』巻之二下の記述である。周信に絵を学んだ備前の画工・長谷川如辰による批判は、きわめて近しい関係の人物によ2 従来の評価― 535 ―― 535 ―

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