鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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るものとして信憑性が高く(注10)、この記述によって周信は低く評価されてきた。しかしながら、『東洋美術大観』などでは、一部分しか抜粋されておらず、どのような文脈で語られたのか詳細に語られてこなかったため、以下より確認したい。探幽、主馬、永真、兄弟三人同ジク高イ(興意カ)ト云人ノ門人ニテ絵ヲ書タリ。探幽一番ニ囲ヲヌケテ上手ニナリ。主馬ハ一風ヲ立テ、雪舟ヲフマヘテ一流ヲカキ出シタリ。永真ハ末ノ弟ナルユヘ、ソレホドヲクレテ、何トゾ早ク一流ヲ立タク、俄ニ自ラ囲ヲヌケントシタル故、タトヘバ官女ノ面ノサイシキ、生エンジニテシタツルハ、面白カラズトテ、黄土ノ具ニテシテタル故、カハリタル絵ニナリテ、後ハ見ラレヌヤウニナリタルト也。ソレユヘ牧心斎ト書タル中ノ絵ハ、一流ヲ立ヌ時ユヘ、絵法ヲクヅサヌナリ。近頃周信ガカキクヅシテ、埒モナキ絵ニナリタルハ、最早ワレヲ押ス絵ハナキト云ヒホコル心ヨリ、大事ノ戒メヲ忘レテ、散々ノコトニナリタルトナリ。(注11) (傍線、波線は筆者による。)従来は波線部のみが抜粋されていたため、「カキクヅシテ」の内容が曖昧であった。その前の文章では、探幽は師(興意)の教え(注12)を抜け出して上手になり、尚信は雪舟をふまえて自流の作品を描き出した。安信は、2人の兄と同様に師の教えの範疇を出ようとし試行錯誤したが上手くいかなかったようで、牧心斎の号が署名された作品は、画法を崩していないという。ここでは、自らの画法を確立していく文脈の流れがあり、波線部は「安信が一流を立てぬ時の絵は画法が崩れていなかったが、近頃周信が描き崩している」と受け取れる。また、同書巻之二上には「如川ハ我マヽ流ニカキクヅシテ、大ニ埒モナキコトニナリタリ。」と書かれており、周信が我流に描き崩していることが記されている。本書の記述は周信没後と考えられ(注13)、「近頃周信ガカキクヅシ」云々は周信晩年期のことと考えられる。これらより、従来『文会雑記』の記述は周信の絵が悪くなった批判の側面を強く捉えられていたが、狩野派の画法が頭取であった周信によって崩されたという内容であった可能性が推測できる。江戸時代の他の画論・画史類も確認していきたい。中林竹洞による『画道金剛杵』(1802年成立)に付属した「古今画人品評」では、上品、中品、下品をさらに3段階に分けた9段階で絵師をランク付けしている。記載されている江戸狩野派の絵師は6人で、すべて和画に分類され(注14)、探幽が上中品、常信と一蝶が中上品、周信と― 536 ―― 536 ―

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