探信が下中品、久隅守景が下下品というように分けられている。また、「文人画」「能画無俗気者」「邪」「俗」「甜」「頼」と絵師を分類した中で、周信は「俗」(注15)と「頼」に分類されている。「頼」には「此の病行家法と称す者殊に多し」と書かれ、周信の他に常信の名もあげられている。常信と周信によって狩野派の家法が広く流布していたと認識されていた(注16)。また、白井華陽『画乗要略』(1831年序)には「狩野周信 號如川、常信子也、画格老成称能手。…北汀先生曰、自探幽至周信、父子兄弟倶長其技、所謂芝蘭玉樹生庭階者耶。」とある。ここでは、白井華陽の師である呉白汀が、探幽から周信に至るまで、それぞれ画技に長けていると評価している。同書には、探幽、久隅守景、尚信、常信、安信、益信等の現在でも名のある江戸狩野派の絵師たちとともに周信が取りあげられており、周信の評価は決して低くなかったことがうかがえる。近代以降、『東洋美術大観』には「周信の画は常信に及ぶべくもあらず、されば従ひて世評も善からざりき。」とあり、前述の『文会雑記』を紹介している。岡倉天心は「周信、岑信ニ及ンテ気力消磨シ殆ント父祖ノ衣鉢ヲ伝フル能ハサルニ至リ栄川ノ巧緻ヲ以テ第三変ヲ試ミタレトモ其余勢長大ナラス」と歴代の当主のなかでも低い評価を与えている(注17)。近年でも周信の研究が進んでいるとは言い難いが、安村敏信氏は「周信に関しては作品の発掘すらされていないので今後の進展を俟つほかないが、常信の法眼時代に指摘できた探幽様式の類型化が、周信にいたってさらに進んだことは、現在知られる周信画からも充分おしはかることができる。周信に至って「埒モナキ絵」になってしまったという評は、当たっているかも知れない。」と伝記と代表作例を紹介し、探幽様式の類型化を指摘している(注18)。中谷伸生氏は、「周信は木挽町狩野家の歴代当主のなかでも、それほど才気のある画家ではなかったように思われる」と評価している(注19)。周信の画風について、薄田氏の論考は非常に重要である。漢画の真体画において常信から影響を受け線描を主体として堅牢な山水表現を用いるが、周信様式では墨線がより存在感を増していることが指摘されている。また、周信は筆線重視の様式を模索し、墨の変化に富んだ作例でも粗放な筆致が目立ち、独自の筆法が見られる点など、詳細に作品を考察され、風景画や漢画作品の特徴を明らかにした(注20)。野田麻美氏は、現存する周信作品の中ではめずらしい大画面の掛幅「西湖図」(静岡県立美術館)に関して、「本作の出現により、繊細な画風が特徴の「蓮池鷺図」(静岡県立美術館)の方が異色であり、常信様式の継承を端的に示す、力強い筆致が特徴― 537 ―― 537 ―
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