注⑴ 薄田大輔「18世紀前期狩野派研究」(『鹿島美術研究年報別冊』36号、2019年)。⑵ 審美書院編『東洋美術大観』第5冊(審美書院、1908年)、安村敏信「狩野常信・周信の画業と伝記」(坂詰秀一編『池上本門寺奥絵師狩野家墓所の調査』池上本門寺日蓮聖人立教開宗750年慶讃事業実行委員会、2004年)。⑶ 経済雑誌社編『国史大系』第14巻(経済雑誌社、1903年)。⑷ 前掲注⑵『東洋美術大観』参照。なお、藤原通夫『京都御所』彰国社、1956年 改訂版:中央公論美術出版、1987年)では、『禁裏御絵割並坪附』に小御所西取付廊下間に柳鷺水草、常御幽のような肥痩の強さは見られないため、探幽本に見られる線質の使い分けは、類型化していったと推測される。周信は、六歌仙の制作にあたり、伝統に則りながらも類型化した描法を用いて制作していた様子がうかがえる。以上のように、周信の小画面の人物画では、細緻に描かれている場合でも、探幽や常信と比較すると、細部の描写の簡略化や粗い部分が看取された。このような点は、先学における「描き崩し」「気力消磨」「粗放」といった評価につながっていると考えられる。しかし、前述したように、簡略化や類型化に関しては、「和漢画手鑑」の参加絵師たちにも確認できたため、周信だけの問題ではなく、同時代的な様相も視野に入れていく必要があるだろう。むすびにかえてこれまでの狩野周信は『文会雑記』や岡倉天心の記述をもとに低く評価され、木挽町狩野家の中でも尚信、常信や典信以降の優れた絵師たちのように研究は進んでこなかった。しかしながら、その略歴を確認し、画論・画史類を確認すると18世紀前半に江戸狩野派の頭取として活躍し、狩野派の著名な絵師たちと同列に語られていたことが明らかとなった。本稿では、現存例の少ない小画面形式の作品から人物表現を確認したものの、紙幅の都合上一部の検証で終わってしまった。制作年代が明らかでない作品がほとんどであるため、『文会雑記』の記述に見られる晩年期の「我マヽ流」がどういったものであるか、今後の課題としていきたい。本研究にあたり、池上本門寺、栃木県立博物館、メトロポリタン美術館の皆様、杉本欣久様に格別のご高配を賜りました。末筆ながら深く感謝申し上げます。― 540 ―― 540 ―
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