⑸ 前掲注⑷藤原氏著書、五十嵐公一「御所の障壁画制作─天明の大火以前」(野口剛、五十嵐公一、門脇むつみ『天皇の美術史4 雅の近世、花開く宮廷絵画 江戸時代前期』吉川弘文館、2017年)。⑹ 古画備考研究会編『校訂 原本 古画備考』4巻(思文閣出版社、2022年)。⑺ 榊原悟『美の架け橋』(ぺりかん社、2002年)。⑻ 榊原悟「江戸幕府歴代将軍画像の制作について─御用絵師の仕事─」(『群馬県立女子大学紀要』⑼ 前掲注⑺。⑽ 前掲注⑴。⑾ 日本随筆大成編輯部『日本随筆大成 第1期』14巻(吉川弘文館、1975年)。⑿ 『文会雑記』巻之一下に「囲ヲヌケヨト云コトヲ、父ノ養辰朝夕ニ云ヘリ。師ノ範囲ヲ出ヌ画⒀ 本書の多くは寛延2年(1749)と宝暦3年(1753)の東下の際の採録と推定されている(日本⒁ 伊藤紫織氏によって『画道金剛杵』本文と「古今画人品評」では和画の意味内容が異なることが指摘されている。伊藤紫織『江戸時代の唐画─南蘋派、南画から南北合派へ』(春風社、2023年)。⒂ ほかに俗には狩野元信、勝野范古、熊斐、高田敬甫、板谷慶舟、福原五岳、啓孫、大西酔月、⒃ 一方で中林竹洞『竹洞画論』では「守信が画は自ら妙處ありて古今に秀でたり、常信が輩よく家法を守る、尚信、探信、洞雲、洞春、如川、栄川が輩は又下れり、よく家法をつぐといへども皆膠柱鼓瑟者也、この頃に至りては狩野氏の門寥寥としてこれらの筆だになし。」と語っている。⒄ 岡倉覚三「狩野芳崖」(『国華』第2号、1889年)。⒅ 前掲注⑵安村氏論文。⒆ 中谷伸生「江戸と京をつなぐ江戸狩野─周信、古信、洞玉、為恭」(『美術フォーラム21』第18号、殿之内中間中段に龍田のみ記されている。また、内裏の障壁画が光明寺に寄進された際の寄進状兼目録に相当する『金襖御寄付書』には常御殿中段の小襖扇画が周信の作となっている。田島達也「作品紹介 光明寺蔵 旧内裏障壁画」(『美術史』132号、1992年)。20号、1999年)、前掲注⑺。ハ用ニ立ヌナリ」とあるため、「囲」は師の画法や教えを指すと考えられる。古典文学大辞典編集委員会編『日本古典文学大辞典』第5巻、岩波書店、1984年)。狩野松栄が記されている。2008年)。⒇ 前掲注⑴。 『大大名の名宝─永青文庫×静岡県美の狩野派』展図録(静岡県立美術館、2023年)。 前掲注⑹。 松島仁「初期江戸狩野派の歌仙画帖─探幽、安信を中心に」(『国華』1298号、2003年)。― 541 ―― 541 ―
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