鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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⑤ 太田聴雨に関する基礎資料研究─再起を図った画家の新古典主義受容─研 究 者:宮城県美術館 学芸員  菅 野 仁 美はじめに宮城県仙台市生まれの太田聴雨(本名栄吉、1896~1958)は、明治43年(1910)上京して画の基礎を学び、1915年から青樹社を立てて活動するも、1923年の関東大震災後はほとんど活動できない日々を過ごす。1927年、再起を図って前田青邨に師事。以後は院展に出品し、1930年《浄土変》が院展初入選で日本美術院賞を受賞。文学・歴史主題のほか、戦前は《種痘》や《星をみる女性》といった時代性を取り入れた女性像を描き、当時の美術院で主流となっていた新古典主義の線描主体の表現の内に人間感情を描出して評価を得た。1936年に日本美術院同人。戦後は伝統に培われた格調高い線の継承者を自負しつつ、造形と色彩の研究へも新たな画境を探って行った。聴雨の作品を知る資料は主に、1983年に宮城県美術館で開催された「太田聴雨展」図録と同年出版の『太田聴雨作品集』があり、この2冊にない図版を補うものとして1997年富士美術館開催の「太田聴雨・野上魏 師弟展」図録がある(以下、「図録」「作品集」は上記資料を指す)。これら図録・作品集には、主に美術館所蔵の代表作と遺族や画家と縁のある個人蔵作品が掲載され、聴雨の画業の大要を見ることができる。しかし、図版はモノクロ掲載が多く、作品についてのより迫った考察には不足する部分もある。筆者は近年宮城県美術館に寄贈された図録・作品集未掲載の太田聴雨作品20点近くの整理に当たり、制作年の同定と手掛かりの不足が課題に思われた。また、寄贈作品の内、平成30年(2018)収蔵の《お産》は、83年時点の所蔵者から市場に手放されたものであり、他《更級日記》も今は所在不明と、作品の散逸も懸念された。そこでこの度の調査では主に個人蔵作品の熟覧を行い、考察に足る作品データを集めた。他83年展資料として残された画家の日記(1911年7月~1915年6月、1923年1月~12月)と、遺族から提供された「雑記帳」一冊、「読書記録帳」一冊を閲覧した。それら資料を検討した結果、まず図録・作品集に掲載作の制作年のいくつかは見直しが必要であることが浮かび上がってきた。そして見直した制作年に沿って作品を見ていくと、特に1920年代から1936年、聴雨が青邨に入門して画家としての再起を図り、美術院同人として地歩を固めるまでの画研究の過程、即ち修行時代から培ってきた素養を基盤に、色彩の課題に取り組みながら、美術院で活躍する古径・靫彦の新古典主― 544 ―― 544 ―

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