鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
558/712

義的描法を試行的に取り入れていく様子が、より明らかに見えてきた。制作年の見直し・推定図録・作品集には、1923~50年代まで、制作年の確かな作品の落款・印章が8点掲載されている〔表のA〕。そこに、新たに制作時期を確認できた作品の落款・印章を加えて、指標となる情報の合間を埋めた〔表のB〕。時代ごとの落款の特徴をたどると、30年代初頭の字体は画業の中でも特に変化が大きい。1923年《炭焼く秋》の縦に長い字体に比して、1931年1~2月はやや肥痩のある横に幅を取った文字となり、「聴」の1,2画目、「雨」の5,6画目はつながっている。それが同年9月頃になると、「雨」の5,6画目は二つの点に分かれ、33年頃からの字体は丸みを帯び、右肩上がりだった2字のバランスは水平に近くなる。35年からは一段と流れるような線に変化し、「聴」の11、12画目は一筆の線条の中に組み込まれ、「雨」の2、3画目は台形のように広がっていく。1936年7月頃からはまた大きく変化し、直線的な硬質な線の楷書に近い字体となる。41年になると「雨」の6画目の点は跳ね上がり、以降50年代へ向かうにつれ、「聴」の字の「心」の2画目の線が右上がりになっていく。これら落款の特徴に基づいて図録・作品集の掲載作を見直すと〔表のC〕、大正9(1920)年すなわち青樹社時代の作とされていた《牡丹燈籠》は、聴雨が青邨に入門し更に院展初入選を果たして以降の1931年1~2月頃を制作の時期と推定することとなる。本調査の過程にて、図録・作品集に記される制作年は必ずしも確たる根拠に基づいたものばかりでないことが判明し、例えば《鐘馗》の制作年1931年の場合は、箱書・付属品等が残されている訳ではなく、画の依頼主に子供が生まれた年から推測されたものであった。しかし落款は1935年頃のものに近い。同じく1931年作とされている《霜之宿》も箱書等なく、落款を見るならば、1932~33年頃の制作と考えられよう。1930年作とされている《きぬた》も落款だけを見ると1931年11月発表の《夏趣》のものに近く、1931年末から33年頃に制作された可能性が考えられる。それから、箱表に「日時計」、裏に「聴雨」朱文白印「淑田子」とある図録・作品集未掲載作《日時計》〔図1〕については、1935年の第1回井南居展(11月1~3日)に「やゝモダンな女を品よく見せた」(注1)同題作が出品されているものの、それと確定できる資料はまだ見つかっていない。しかし昭和9年(1935)9月3日付けの表装の領収書が付属する《美人》〔図2〕と落款が近似していること、そして描かれているモチーフを手掛かりとして、35年末頃の作と推定した。― 545 ―― 545 ―

元のページ  ../index.html#558

このブックを見る