画中、文台の上にある日時計(正午計)は、国立科学博物館蔵「林善助の正午計」であるが、これを含め同館所蔵の正午計3種のスケッチ〔図3-a、b〕が遺族の元に残され、用紙の端には「十月十八日」「十一月十一日」の日付が記されている。聴雨は1935年9月の院展が試作展となったことから出品を辞め、翌年2月の改組帝展に照準を当てて《星をみる女性》の制作に取り掛かった。そして10月10日、伊東屋の天体観測会に参加して4吋インチの観測鏡を見るも、「やっぱり自分が今度やる仕事には感じが小さすぎて、不適当だ」と思い、結局、国立科学博物館の「20センチ屈折赤道儀」を描くのであるが、その制作は12月11日から下図に入り、完成まで約2か月を「昼夜兼行製ママ作へ没頭」するものであった(注2)。科学博物館の天文部に展示されていた正午計のスケッチが、《星をみる女性》の取材で同所に通った際にとられたものとすると、《日時計》の制作時期は、落款から推定される1935年に加えて更に《美人》より後の10~12月とまで絞り込めるだろう。それから、遺族旧蔵で落款・印章のない《日高川》〔図4〕は、図録・作品集で既に指摘されている通り、第2回国画創作協会展(1919年11月)出品の村上華岳《日高河清姫図》の影響が濃い作品である。同展を見た聴雨は翌月の『たつみ』第13巻第12号に展覧会評を載せているが、これを年譜等で第1回展と誤っている図録記載の制作年「1918年頃」は、本来「1919年頃」としたかったものであろう。他方、作品集で草薙奈津子氏は本作を大正15年(1926)作としている(注3)。しかし裏付け資料は示されず、今回閲覧した一部の日記や後述の「雑記帳」にも関連する記述は見つけられなかった。聴雨は1915年に青樹社を立て、18年から23年までほぼ毎年1,2回展覧会を催した。この時期の作風は、構図と色彩の両面で重苦しい感じのする絵だったことが推察され(注3)、《日高川》に描かれる清姫の着物の、赤の上に薄墨を重ねて沈んだ色味などを見ると、確かにそうした印象は似つかわしい。また、なでつけるような筆筋の残る運筆や、主人公の躍動的な姿勢は、モノクロ図版のみながら図様が知れる大正期の作品《法成寺物語》(22年)〔図5〕にも近しいところがある。今後更なる資料収集を課題としつつ、ここでは《日高川》を、聴雨の数少ない青樹社時代の作風が偲ばれる作と置き留めて話を進めたい。翠岳・青樹社時代の基礎学習聴雨は明治43年(1910)、円山四条派の川端玉章門下で花鳥山水を得意とした内藤晴洲の内弟子として絵の道に入り、初め翠岳と号した。師に付け立て描の花鳥画を叩― 546 ―― 546 ―
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