⑤ 前田藤四郎の創作活動─商業美術と版画制作の接点をたどる─研 究 者:大阪中之島美術館 学芸員 清 原 佐知子はじめに前田藤四郎(明治37-平成2)は昭和期の大阪を代表する版画家であり、春陽会や日本版画協会を拠点に活動した。超現実主義などの前衛芸術にいち早く関心を示し、昭和初期の大都市・大阪の繁栄やモダンさを斬新な版表現で活写した。戦後は木目や幾何学的モチーフを交えて作風を拡げている。版画が本業だが、版画家を志す前は百貨店でウィンドウ装飾などを手掛け、その後も長く広告図案に携わった。前田にとって図案の仕事は「生活のための余技」(注1)ではあるものの、創作の柱の一つと言えよう。前田の商業美術との関わりについては、平成6年(1994)より橋爪節也が大きく光を当て(注2)、平成28年(2016)には忠あゆみが初めてこのトピックに特化して論じている(注3)。本稿では、大阪中之島美術館が多く所蔵する前田旧蔵資料(注4)の整理と調査、また他の美術館や企業などでの調査に基づいて先行研究を補い、さらなる真相に迫りたい。大正期新興美術運動との出会い前田藤四郎は明治37年(1904)に現在の兵庫県明石市に生まれ、中学時代に通信教育で水彩画を独習した。幼少期から絵を描くことが好きで、美術学校への進学を希望したが経済的事情で叶わず(注5)、大正12年(1923)、神戸高等商業学校(神戸高商、現在の神戸大学)に入学した。1920年代の東京では、未来派、表現主義、ダダイスム、構成主義など、欧州やロシアの前衛芸術に刺激を受けて、様々な芸術家グループが誕生した。未来派美術協会、アクション、マヴォ、三科、造型などのグループのもとに、時代の先端をめざす若い芸術家たちが、大正期新興美術運動と今日呼ばれる種々の活動を展開した。前田は神戸高商在学時にこの運動を通じて前衛芸術に開眼し、商業美術へと導かれた。大正12年(1923)の9月から11月頃、運動の当事者である浅野孟府と岡本唐貴が、関東大震災を機に神戸に移住し、三宮のカフェ・ガスを拠点に展覧会などの活動を始めた。彼らが共同生活をする住居は、現在の神戸市灘区原田通の近辺にあり、山の手の原田の森には関西学院が、森の西端には前田の通う神戸高商が位置しており、前田― 43 ―― 43 ―
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