き込まれ、京都画家の絵や中国古画などを写して学んだという(注4)。修業時代の聴雨の画技を知れる資料として、図録・作品集には「大正三年九月五日写 翠岳生」と書入れのある鶏の画稿〔図6〕や、聴雨号を使い始めた大正4年(1915)頃の作とされる《山葡萄》が掲載され、鶏の羽毛を部位ごとに描き分ける運筆や、たらし込みによる葡萄の葉の表現に、聴雨の画技の高さを見ることができる。ここに、図録・作品集未掲載作品で20年代の落款を持つ《芭蕉布袋図》〔図7-a、b、c〕も加えておきたい。本作で、寛ぐ布袋の頭上に差し掛かる芭蕉の葉は、円山派のお家芸である付け立てと、たらし込みを駆使して描かれている。布袋の顔は墨の細線で控え目に輪郭を取ったところに淡彩を差し、衣のひだ部分は隈を施した没骨描で表現され、聴雨が江戸時代以来の写生派の描法をよく身に付けていたことを伝える一作である。もう一つ、聴雨が修業時代に身に付けていたものとして、自然主義的な画も挙げられよう。聴雨は1915年に《炭焚き小屋》、1923年に《炭焼く秋》〔図9〕と農婦を題材とした画を描いている。とりわけ《炭焼く秋》は、山間の炭焼き場を俯瞰視点で捉え、点景のように農婦を描く風景画ともいうべき淡彩の画で、それは玉章門人らが自然主義を標榜して明治~大正初期に活動した无声会の作風を想起させもする。日記からは、聴雨が玉章門人・山田敬中の描法を習ったことや(1912年7月8日)、无声会展へも足を運んだことが知られ(1914年7月20日)、経済的事情で晴洲宅を出された大正元年(1912)8月以降は、時折師を訪ねつつ、古書画店で古画を写して生計を立てながら、観山・大観・栖鳳らの画帖の模作を試みたり、上野の博物館で《餓鬼草紙》や《当麻曼荼羅》を写すなどして自学した。巽画会展とその月例研究会、仕事仲間と結成した画会やそこから発展した青樹社が、主な研鑽の場であった。花鳥画を得意とする晴洲の内弟子時代から独り人物画の研究を進めていたことも日記に綴る聴雨は、やがて国画創作協会の画にも惹かれつつ、青樹社展などに「すくわれゆく女性の情緒」(注5)が描出された《聖ヨハネ祭の夕》(18年)や、谷崎潤一郎の文学に取材した《法成寺物語》(22年)、そして《日高川》など、人間感情を題材とした人物画を発表していくのであるが、ここではまず、その下地として、修業時代の聴雨が古画から同時代まで広範にわたる墨筆の技を身に付けていたことを確認しておきたい。因みに布袋を描いた作品と自然景の中の農婦を描いた画は他にも、「昭和六年一月」と箱書きのある《唐子布袋図》〔図8〕と、落款の字体から1931~2年頃作と推定される《秋》〔図10〕を、これまでに見ることができた。次に見るように、聴雨は前田― 547 ―― 547 ―
元のページ ../index.html#560