鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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青邨入門後の、画表現を様々に試していた30年代初頭の頃も、修業時代の素養に基づく筆を画のレパートリーの一つとして持ち続けていく。青邨入門から1936年まで聴雨と小林三季が中心になって1915年に結成した青樹社の活動は順調に成果を上げてきたが、関東大震災直後の1923年9月の野外展を最後に経済的に行き詰まり、以後聴雨は三季の「描け」という叱りにも立ち上がれない年月を過ごすこととなる。ようやく1927年秋、「殆ど独学で来た自分だ。みつしりと心に適ふまで土台をやりなほそう」(注4)と、三季を介して前田青邨への入門を決心、二か月に一度ほどの頻度で旧作を持参し、青邨の「何か自分のものを持っている」との言葉に励まされながら、翌年から院展に挑んでいく(注6)。1928、29年の院展は、落選ながら、キリスト教主題の作品を出品した。29年出品作とされる《キリスト》〔図11-a〕は、二曲一隻に聖母子と女性たちを描く濃彩の画である。まつ毛や髪の一筋まで描く細部表現もあるが、着衣ほか一面同色を塗り渡す色づかいが強い印象を放つ。今回閲覧した「雑記帳」は主に書籍の抜き書きを内容とし、大正期作《土手の道哲》に関連するメモ(42頁)や日本美術院の研究会の備忘録(95~100頁)などから、大正期、1920年代から昭和初期に渡って使用されたものと思われる。「雑記帳」中、1930年作《浄土変》に関連する当麻曼荼羅縁起絵巻詞書の抜き書きの直前にあるのが、『聖書植物考』(別所梅之助、警醒社書店、1921年)と『聖書辞典』(日曜世界社、1924年)からの抜き書きである。特に後者から「聖書における色」の「表号的意義」について、11の色の聖書中の扱われ方や図像学的解釈を写し取った60~65頁は、聴雨が《キリスト》の制作頃に、色彩に関心を向けていたことを示唆するものではないだろうか。聴雨は後年に、自身の色感の鈍さ、墨絵のように色が濁って沈んでしまう苦労について述べているが(注7)、修業時代に墨筆淡彩の筆技をよく習得していた聴雨が、「ドミー派の色彩観」(注5)と評された《聖ヨハネ祭の夕》(18年)や《日高川》など、独学による制作時から課題となったものの一つは、色彩の扱いであったことだろう。「雑記帳」の21~24頁「色調 調和」に関する記述には、「補色と補色を近くに並べる」というメモも見られる。《キリスト》には、元々彩度の低い色味が使用されているが、更に例えば青いベールの輪郭と衣文線を表す色に赤が選択されるなど、補色・反対色を組み合わせて使う箇所も散見され〔図11-b〕、それを内隈の要領で塗り伸ばすため、― 548 ―― 548 ―

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