色彩は濁り、《日高川》とも通じる重い色調の画に仕上がっている。青邨に入門し、その古径・靫彦に対する畏敬の評を聞きながら、やがて自身も彼らが主導した線描主体の描法を取り入れていく聴雨だが、土台からやり直すことを決意してまず取り組まれた課題は、色彩の画であった。その翌年作、当麻寺縁起の中将姫の物語を描いた《浄土変》〔図12〕は現存しないが、当時の絵葉書を見るに、淡くぼかした曼荼羅の仏と明快な赤い衣の中将姫を対比させた、構成のとれた画であったようだ。本作は院展初入選かつ日本美術院賞受賞と聴雨の出世作となるが、この方向に安住せず、31年2月の院試作展《路通》ではまた異なる画を試みていく。芭蕉の門人・路通と少女を描く《路通》〔図13-a、b〕は、画中隅々、空の青まで絵具を塗り渡した画で、第2回東北美術展へも再出品した聴雨の自信作である。淡彩と濃彩を併用し、人物の着物や顔の一部に補助的な細線はありつつも、個々の形態を彩色と薄墨の陰影を主体に示す描き方は、先に見た布袋図の延長線上にある表現で、二人を囲うようにある叢は、墨画の運筆を濃彩に置き換えたかのように、一葉一葉を筆の筆勢で描く。水気を含んだ絵具を幾度も重ねるような彩色が幾所にもみられるが、特に本作や同31年院展出品作《かつらぎのおびと》に特徴的な表現としては、水滴模様が挙げられる。この、溶いた絵具のしずくを落とし、それが乾いて周縁部に絵具の粒子が溜まる模様を、聴雨は両作で土がちな大地の表現として用いている。そしてそれは、先にこの2作と同じ31年頃の作と推定した《牡丹燈籠》においては、右側に立つ女性(お露)の着物模様に一段と制御を利かせて応用されている〔図14-a、b〕。《牡丹燈籠》も《路通》同様、描線を極力排し、周縁を白く抜くことで人物の輪郭を際立たせる没骨表現が目指された画であるが、それを濃彩で徹底して試みているのが、同31年11月の第2回東北美術展出品作《夏趣》〔図15〕である。蚊帳の前に横座りする女性の浴衣は黒地に白の草花柄で、その柄のずれ、そして淡墨の隈により、袖の形態と前後関係が説明され、その顔を引き立てるのも輪郭に沿った外隈である。つまり聴雨は31年中の制作では、このように没骨と彩色による表現を形を変えて様々に試行している。その間、《路通》では一所に複数色を織り交ぜていた彩色は《牡丹灯籠》や《夏趣》を経て色数が整理されていき、そうした点でも《牡丹灯籠》はこの頃の制作と位置付けられよう。では画の構成要素としての線が明らかに現れるのはと言うと、32年院展出品作《お産》〔図16-a、b〕の画中においてである。布団の中にいる女性の上まぶた、鼻筋、― 549 ―― 549 ―
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