鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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顔の輪郭に黒々とした強い墨線が登場し、この存在の主張を許された線は、この画で唯一の動きである母親から嬰児へ向けられる視線を、際立たせる役を果たしている。前年に小林古径が鉄線描を前面に出した《髪》を発表して話題になったが、聴雨は母親の顔や枕、腕周辺を隈の陰影で引き立てる従来の表現の中に、話題の線を部分的に採用、そして翌33年の院展出品作《杉橋検校》〔図17〕に至り、輪郭及び衣文線すなわち画の全面へのこの線の摂取を試みる。以後、34年の院展作《種痘》では太く強い線を、そして36年帝展出品作《星をみる女性》へ、制作ごとに質と効果を実験しながら、聴雨は線描もまた画表現の課題に据えた制作へと進んでいく。そうした変遷の中で見ると《霜之宿》〔図18-a〕も、落款から見直した1932~33年頃の制作と考えて良いだろう。本作は先述のように箱書ほか制作年を伝える付属品等は残されておらず、図録・作品集における制作年31年は、叢を描く色遣いや水滴模様の描法が《路通》と似ることから推定されたものと想像する〔図18-b〕。確かにこれらの描法は《路通》に似るが、しかし人物(松尾芭蕉)の全身が、《杉橋検校》と同じく明確な輪郭線を以て描かれる点は大きな相違であり、面貌もやや抑えめでありつつも《路通》より整理され明快さを増した描線による〔図18-c〕。こうした点から《霜之宿》の制作年についても、《路通》よりもう一段階先へ画研究を進めた後の作、《路通》で試みた濃彩と筆技の課題を、更に鉄線描による人物表現と併せて再検討した作と位置付けたい。また再び色彩に目を戻すと、画中に使われる色数が整理されて行くのと共に、《日高川》や《キリスト》に見た重ね塗りによる重たい色感も、《お産》の頃には聴雨の手中にある画技の一つとなって母子の布団に効果的に扱われていく。それが1934年東北美術展出品作《良寛さまと貞心尼》頃から35年作の《美人》〔図2-a、b〕、そして同じく落款から35年頃作と見た《鐘馗》〔図19〕と、線描を主体とする画に取り組み始めた頃になると、色彩は輪郭線の内で単一色の濃淡(《美人》の場合は具の盛りの厚さを変えたグラデーション)としてのみ扱われ、この線を主とする表現の中で、混色の課題は一端遠のいて行く。そして1935年末の作《日時計》の頃に、透明感と華やぎのある新たな彩色法が現れる。《日時計》の彩色は、かつてのように色の上に色を、しかも反対色や補色を塗り重ねるのではなく、赤の隣に黄、黄の隣に緑青と、色相環に沿って絵具の盛り具合を調整しながら隣り合わせて布置するもので、こうすることで少女の着物の彩色は混濁が回避され、各色鮮やかな発色のまま色彩の漸次変化が展開されている〔図1-b〕。そして《日時計》を経て1936年、《星をみる女性》においては、線描及び、彩色は反対色、― 550 ―― 550 ―

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